実は、小池は4月28日のオリックス戦で左太ももの裏側をつって7回途中降板。そのまま登録抹消され、この日再登録されたばかりだった。

 故障明けとあって、当初は5回終了時点で降板する予定だったが、本人が「もう1回行けます」と志願したため、6回まで続投させた。だが、これ以上無理はさせられず、無安打無失点での交代劇になったというしだい。

 指揮官にとっても苦渋の選択だったが、難しい局面でリリーフした香田も7、8回と3者凡退に打ち取り、継投ながら依然ノーヒットノーランは継続。味方打線も7回に3点を挙げ、あと1イニングを抑えれば、1941年8月2日(名古屋戦)に阪急の江田孝、森弘太郎のリレーで達成して以来、58年ぶりの珍記録が実現するところまで来た。

 そして、運命の9回、香田は先頭の谷佳知を遊ゴロに打ち取ったが、1死から代打・藤井康雄に右前安打を許し、惜しくも「あと2人」で記録は幻に。それでも後続を抑え、被安打1のリレー完封勝利。「(記録を)もっと早く知っていれば……」と悔やみつつも、「でも、ウイニングボールを(小池に)渡せてホッとしましたよ」と5年ぶりのセーブの味を噛みしめていた。

 一方、ノーヒットノーランを阻止した藤井は「相手が一人で投げてたんじゃないから、楽に打席に入れた」と余裕のコメント。

 それもそのはず。藤井は1安打完封負けの1988年9月3日の近鉄戦では4回にチーム唯一の安打を放ち、90年4月30日の近鉄戦でも7、9回にチームの全安打2本を記録。さらに1安打完封負けの89年7月18日の日本ハム戦でも、7回に自らチーム初安打を記録しているのだ。この日も含めてノーヒットを阻止すること4度。史上最強の“止め男”と言えるだろう。

 ノーヒットノーランを阻止するのは、何も打者に限った話ではない。

 そんな感慨を抱かせたのが、1990年5月9日の西武vs日本ハム(東京ドーム)だった。西武の先発・渡辺久信は9回2死まで無安打に抑え、次打者・ウインターズも右飛に打ち取った。普通なら、この時点でノーヒットノーラン達成である。

 だが、西武打線も柴田保光から決定打を奪えず、0対0のまま延長戦に入った。渡辺は10回も安打を許さず、記録を継続させたが、ついに11回1死、160球目のスライダーを小川浩一に右前安打された。

「こういうものは運だから仕方ないよ」(渡辺)

 延長戦で記録がストップしたのは、1967年の坂井勝二(東京)以来のアンラッキーな出来事だった。

 そして、記録上ではノーヒットノーランを阻止したのは小川だが、“真のヒーロー”は柴田だった。自らも2週間前、4月25日の近鉄戦で東京ドーム初のノーヒットノーランを達成しており、「1点を取られたら、記録をやられるのがわかっていたから、7回ごろから必死だった」と11回まで7安打を許しながらも要所を締め、得点を許さなかった。この気力が回りまわって、小川の一打を呼び込んだというしだい。

 だが、皮肉なことに、勝利の女神は渡辺にほほ笑む。12回、西武は1死二塁から石毛宏典の三塁打と伊東勤の内野安打で2点を勝ち越し、そのまま逃げ切り。11回で降板した渡辺が勝ち投手になり、12回完投の柴田は無念の黒星となった。

●プロフィール
久保田龍雄
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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