3回表、水野雄仁に空振り三振に打ち取られたのが、ことの発端だった。フィルダーは悔しさのあまり、バットを地面に叩きつけたが、なんと、跳ね返ってきたバットが右手小指の付け根を直撃。その日は痛みをこらえて最後まで出場したが、試合後、都内の病院でレントゲン検査を受けたところ、右第5中手骨骨折で全治1カ月の重症と判明した。

 本塁打王のタイトルがかかっているとあって、本人は「少々のケガでもプレーする。骨折でもできる」と必死に訴えたが、「完全に骨がくっつく前にプレーしたら、今後野球ができなくなる恐れがある」とドクターストップがかかり、泣く泣く断念。残り24試合すべてを棒に振ってしまった。

 フィルダーの欠場により、漁夫の利を得たのがパリッシュ。この日も広島・金石昭人から36号ソロを放って2本差に詰め寄ると、「鬼のいぬ間に」とばかりに42本塁打を放ち、逆転でタイトルを獲得した。

 フィルダーは「あのとき短気を起こさなければ……」とさぞかし後悔しただろうが、後の祭り。だが、翌年メジャー復帰すると、タイガースの4番として1990、91年と2年連続本塁打王に輝く。これもケガの功名か?

 1988年10月19日の近鉄vsロッテ(川崎)は、“伝説の10.19”として多くの野球ファンの記憶に残る名勝負である。

 奇跡の逆転Vを実現するには、連勝が唯一の条件だった近鉄は、ダブルヘッダーの第1試合で執念の逆転勝ち。第2試合も8回を終わって4対4の大熱戦を繰り広げたが、9回裏、二塁走者・古川慎一へのけん制タッチアウトの判定をめぐり、ロッテ・有藤道世監督が「大石(大二郎)が古川を故意に押した!」と9分間にわたって猛抗議。結果的にこれが祟り、近鉄は延長10回時間切れ引き分けで優勝を逃す。「あの“引き分け狙い”の抗議さえなければ、11回に入れたのに……」とナインはもとより、ファンも無念の思いを噛みしめた。

 この話がなぜ「後悔先に立たず」になるのか?それは、試合の序盤に仰木彬監督の口から出たひとことが伏線になっていたからだ。

 1回1死、近鉄の先発・高柳出己の佐藤健一への死球がきっかけだった。最初は本塁付近で治療にあたったが、その後、ベンチに移動して治療することになった。

 すると、三塁側ベンチから仰木監督が飛び出してきて、「早くやれ!痛いのなら代われ!」と促した。近鉄は引き分けでもV逸となるので、プレー以外のことで時間が費やされることに焦っていたのだ。

 これに対し、有藤監督も「治療するのは当たり前じゃないか。わざとやってるわけじゃない」と言い返し、険悪なムードになった。口論はエスカレートし、ついに有藤監督は「もう絶対あなたんとこには負けないから!」と啖呵を切った。

 この試合で球審を務めた前川芳男は、後年、次のように回想している。

「9回は抗議の仕方が全然違っていた。ベンチも『ゆっくり、ゆっくり』って後押しするし、『何を言うか、この野郎!』と思ったけど、最初からそういう(勝たせたくない)感じがあった。普通だったら、“勝たせてやってもいい”という人間的な感情もないわけではなかったと思いますよ。それがあのひとことでガラッと変わってしまうのだから、勝負事っていうのは、そういうものなんだと痛感したし、あれでは、近鉄は勝てないなと思いました」

「早くやれ!」の代償は、あまりにも大きかった?

●プロフィール
久保田龍雄
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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