私が信奉する経営者で、その“教え”の伝道者としても活動している京セラ創業者、稲盛和夫さんの経営哲学の神髄は、「利他」である。あれだけ信頼してくれていたフランチャイジーを見捨てる形となったのは、利他の真逆といえる。だからこそ、「フランチャイジーの人たちに新しい何かを創造してさしあげたい。それが終わって初めて私のブックオフの人生が終わるのだ」と思っていた。

 松山と新潟のフランチャイズ店の開店は、ブックオフから俺のへの完全な移行と、今の事業でようやく利他の実践が始まったことを意味している。

●飲食業の「俺の」を始めた理由

 2012年11月に、私が72歳で創立した「俺の株式会社」は、17年10月に第5期の決算を締めた。俺のイタリアン、俺のフレンチ、俺のやきとり、俺の割烹、おでん俺のだし、俺の焼き肉などを36店運営し、海外にも4店を出店している(1月末現在)。売上高が90億円、経常利益は3億円だ。決算内容では、新興市場の公開のハードルを越えた。

 俺のが創造したビジネスモデルは、ミシュランの星が付くような店で経験を積んだ一流の料理人がオープンキッチンで高級食材を使って腕を振るい、高級店の3分の1の価格で料理を提供するものだ。食材の原価率が60%を超えることも厭わないが、それではやっていけなくなるので、“立ち飲み”形式を軸としてお客さまを1日3回転以上させることで利益を出す。

 たが、私はもともと飲食業界に興味があったわけでも、詳しかったわけでもない。まして、このようなビジネスモデルを最初から狙って作ったわけでもない。

 私がなぜ縁もゆかりもなかった飲食業界で俺のを立ち上げたのか。また、その背景にどんな考えがあったのか、振り返ってみたいと思う。

 ブックオフから完全に手を引いた後、ハワイのコンドミニアムでも買ってゴルフ三昧の日々を送ろうかとも考えていた。しかし先に書いたようにブックオフ時代のフランチャイジーの人たちへの申し訳なさもあった。そんなとき、たまたま頼まれて引き受けたのがある焼き鳥屋だった。

 それを機に飲食業界の人たちと接する機会が増えると、厳しい現実を教えられた。飲食業界は非常に労働時間は長く、作業環境は悪く、給料は安い。料理人をめざして18歳で専門学校に入り、1~2年後に卒業して業界に入るが、10年後には同窓会が開けないほど人が残っていない。1割程度しか残っていないという話もある。

 これを聞いた時はショックだった。いかに厨房が魅力ある職場となっていないか、ということだ。

 日本は、四季折々の山海の珍味にあふれ、それが料理人の創意工夫を促し、フレンチでもイタリアンでも世界に負けないレベルの料理を生み出しているものだと思っていたが、それは業界に残った一握りの人々の力によるもので、実際は、夢を抱いて料理の道を選んだ若者のほとんどが、現実に幻滅して職場を離れていく世界だったのだ。

 このまま厨房に魅力がない状態を放置しておいては、ますます調理の現場をめざす人も減り、飲食業界の悪循環が始まってしまう。いずれ日本の料理は、世界から取り残されていくだろう。

「どうしたら料理人が幸せになれるのだろうか」。それが俺のを作るきっかけだった。

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お客様よりまず「料理人を幸せにする」