1996年のオールスター第2戦、打者・松井秀喜の場面で全パの仰木彬監督がイチローを登板させたことに対し、「打者に対して失礼」と激怒した野村監督だが、実は南海監督時代に野手をリリーフ登板させ、相手チームの監督をカンカンに怒らせたことがあった。
1970年10月14日の阪急戦(大阪)、5回までに1対7と大差をつけられると、6回からなんと、センターの広瀬叔功を3番手としてマウンドに送り出した。
投手として南海に入団した広瀬だが、1年目に肘を痛めて野手に転向したため、2軍でも投げたことがない。プロ16年目でまさかの初登板となった。
「勝負がついてしまったし、お客さんをなんとか喜ばすためにやったんや。それに3番手(予定の)ピッチャーがまだできあがっていないし……。阪急さんには失礼なことをしたが、ワシはお客さん本意に考えた」というのが理由。
広瀬は先頭の石井晶に右前安打を許したものの、加藤秀司を投ゴロ併殺、高井保弘四球の後、山口富士雄を投ゴロに打ち取り、無失点で切り抜ける。7回も2四球と安打で1死満塁のピンチを招くが、後続2人を打ち取り、2回を無失点に抑えたところで、お役御免。「西さん(阪急・西本幸雄監督)が恨めしそうな顔をするなど、もうドッキン、ドッキン。やはり投手はしんどい」とコメントした。
その西本監督は「オープン戦でもあんなこと(はしない)……。向こうはニヤニヤ笑っとるけど、こっちはそうはいかん」と怒り心頭だった。
投手交代の場面で先発投手に外野を守らせ、次の回から再びマウンドに上げるという奇策を用いたのが、ヤクルト監督1年目、1990年6月10日の大洋戦(札幌円山)。
先発・宮本賢治が7回まで3失点に抑え、1点リードで迎えた8回、野村監督は2番手・矢野和哉をリリーフに送ったが、降板した宮本がライトを守ったので、2万8千人の観衆はビックリ。
「大洋は終盤に勢いがある。宮本の球威、球種からして左打者には不利。トラの子の1点を守るために奇策で目先を変えたんだ」というのが理由だった。