皇居南側の桜田門付近から撮影した国会議事堂方面(撮影・諸河久:1963年8月18日)
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現在の桜田門駅付近から撮影。街路樹は増えたものの、当時の面影を残す(撮影・井上和典/AERAdot.編集部)

 2020年のオリンピックに向けて、東京は変化を続けている。同じく、前回の1964年の東京五輪でも街は大きく変貌し、世界が視線を注ぐTOKYOへと移り変わった。その1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、国会議事堂前で行われるデモでもおなじみとなった「桜田門」付近だ。

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 遠くに鎮座する国会議事堂をバックに、まるで隊列を組むかのように雄々しく走る都電。これは、皇居の南側に位置する「桜田門」付近から写した作品だ。高校時代の夏休みの昼下がり、都心の撮影地に飛び出した。

 皇居・内堀に沿った晴海通り歩道からの撮影。当時は貴重だった望遠レンズを用いたため、道路上に飛び出して写したような迫力ある絵柄に驚かされた。前窓を開け放した9系統浜町中の橋行きが発車を待つ桜田門停留所。ぼんやり霞む議事堂が、夏の気だるい暑さを伝えてくれる。この後方に議事堂前停留所(1965年頃廃止)があった。乗降者があるのは稀で、車掌が「通過します!」と叫び、チンチンと二点打する信鈴の音が今も耳に残っている。

江戸城の重要な出入り口

 この9系統は、渋谷駅前~青山一丁目~赤坂見附~三宅坂を経由して桜田門に至っていた。東京オリンピックの関連道路工事が進捗し、赤坂見附~三宅坂が工事に支障を来すこととなった結果、1963年10月1日から青山一丁目~三宅坂は廃止され、9系統は青山一丁目~六本木~溜池~虎ノ門~桜田門に経由変更された。

 桜田門は「小田原口」「芝口」とも呼ばれ、江戸城の中でも重要な出入り口の一つであった。幕末の1860年3月3日(旧暦)、桜田門外で大老職の井伊直弼が水戸浪士の凶刃に倒れたのは、あまりにも有名な事件である。

 そもそも私が都電撮影に熱中したのは、日大三高に進学した1963年から卒業した66年にかけての高校時代。居住している新富町から校舎のある赤坂までは、都電9系統(渋谷駅前~浜町中の橋)を使って通学した。進学初年の6月に憧れの一眼レフカメラを買って貰い、撮影熱に拍車がかかったことはいうまでもない。授業を終えた土曜日の午後や日祭日には、通学定期券を有効に使って都内に張り巡らされた都電のネットワークの撮影に情熱を傾けていた。

 愛機となった35mm判一眼レフカメラは「アサヒペンタックスSV」で、開放自動絞り「スーパータクマー55mm F1.8」が標準レンズとしてセットされていた。望遠系の交換レンズによる一眼レフの撮影は、まるで異世界を覗くような驚きがあった。

 この日も、先輩からやっとお借りした虎の子の望遠レンズ「オートタクマー105mm F2.8」をカメラに装填して、撮影地に繰り出した。まもなくやってくる暑い夏の思い出でもある。

■撮影:1963年8月18日

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