若菜からであれば、ファッション通り踏切より保健福祉センター内の図書コーナーが近いので、先に行くことに。
『夕張市史 下巻』(昭和56年)で学校の項を調べてみると、夕張ドレスメーカー女学院が個別に記載されており、昭和26(1951)年にここ鹿の谷一丁目に開設されたという。生徒数は多い年で170名を超え、昭和51(1976)年度までの延べ人数は1231人。教職員は多い年で専任9人を擁していた。その後は過疎化のあおりを受けて苦しい経営を強いられながらも「昭和54年現在なお存続」とある。その後平成3(1991)年に出た『追補 夕張市史』によれば、各種学校は昭和50年代から休校が目立つようになり、炭鉱閉山の影響を受けて激減したことが記されている。追補版では昭和54年に3つあった和洋裁学校は同57年に2校、60年以来1校のみという。この追補版の編集時に存在したのは「夕張ドレスメーカー女学院」のみとしており、いくつもあった和洋裁学校の最後がこのファッション通り踏切近くの学校だったことが判明した。
図書館を出て件の踏切へ向かった。途中で鹿ノ谷駅に立ち寄る。ここはかつて夕張線と夕張鉄道の連絡駅だったこともあり、石炭車が多数停まっていたと思われるヤードの跡地が広がる中で、ホーム1本と駅舎がぽつんと残るのみであった。駅舎へ入ってみると誰もいない。JR北海道が平成28(2016)年に発表した「極端にご利用の少ない駅」の中で、鹿ノ谷駅は「10人以下」となっており、利用がおそらく上り方面に限られるとすれば1列車あたり多くても2人ということになる。
『夕張市史』によれば、人口が最大を記録した昭和35(1960)年度の乗車数は57万1740人というから、1日あたりに直せば1566人。当時の列車本数が翌36年の時刻表の通りだとすれば準急2往復を含む14往復だから、少なくとも1列車ごとに100人前後は乗っていた勘定になる。思えばその当時に自家用車を持つ人はわずかであり、炭鉱の労働者に加えて関連会社への通勤客、夕張北高校と夕張工業高校の生徒、それに件のドレメのお姉さんたちも利用していたはずだ。
ほどなく志幌加別川を渡る。夕張支線の鉄橋の手前には複線時代の遺構の橋桁が今も架かり、少し離れた向こう側にはこれも廃止されて久しい夕張鉄道の橋台上に高く伸びた白樺が長い歳月を思わせる。少し歩けば閉まった商店の少し向こうにファッション通り踏切はあった。非常ボタンに添えられたプレートにはその通りの名前が記されていたが、打ち付けられた黄色いメイン看板にはただ「ファッション」とある。ふつうは◯◯踏切とフルネームなのだが、ここは「通り」も「踏切」も一切省略して断言しているので、まるでここがファッション発祥の地のようだ。
すぐ近くの末広団地から歩いてきた70代とおぼしきご婦人に聞いてみると、ドレメはだいぶ前に閉鎖されたけれど建物は長らくそのままで、つい3年ほど前に取り壊されたのだという(実は平成24年であったことが後に判明)。場所は踏切のすぐ近くで、線路より一段高い通りに面したところだ。まだドレメがあった頃は、娘さんたちがすぐそこの手芸屋さんで糸や材料を買って学校へ向かう姿をよく見たそうだ。
若いお嬢さんたちが手芸屋さんから賑やかにドレメへの坂を上っていた頃を思い起こさせてくれるこの踏切も、夕張支線の平成31(2019)年3月の廃止が決まった今となっては余命いくばくもない。彼女たちの思い出を語る貴重な記念碑もひっそりと失われるのだろう。