踏切の名称に惹かれて何十年の、いわば「踏切名称マニア」である今尾恵介さんが、全国の珍名踏切を案内してくれる連載。最終回は、廃線が決まった石勝線夕張支線の「ファッション通り踏切」を紹介します。
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夕張市といえば、北海道で最も人口減少の大きい都市のひとつである。大都市から離れた典型的炭鉱都市であったため、エネルギー事情の変化で閉山が相次ぐや、有効な歯止め策も見当たらないまま人は次々と他所へ去っていった。最盛期の昭和35(1960)年には11.7万人を記録し、札幌、函館、小樽、旭川、釧路、室蘭に次ぐ道内7位を誇った人口も、現在ではその約7パーセントに過ぎない8286人(平成30年4月30日)。夕張メロンの成功という明るい話題もある一方で、スキーリゾート開発などの巨額投資で負債が膨らみ、ついに財政破綻に追い込まれている。
その夕張市に唯一残った鉄道が石勝線の夕張支線だ。かつてこの路線(旧夕張線)は石炭列車の多さに複線化されていたこともある。戦後しばらくは石炭の積み出しが多く、昭和40(1965)年度には市内各駅の石炭の発送は合計約214万トンに達した。閉山後はもちろん貨物輸送は廃止され、今では1両編成の気動車が1日5往復走るのみ。
その炭鉱イメージとはかけ離れた「ファッション通り踏切」が線内鹿ノ谷~夕張間にある。石炭の街にファッションという語彙はかなり違和感を覚えるが、美しく装いたい思いはどこでも同じという妙にリアルな感触もあって、札幌での用事を済ませた翌日に訪ねてみた。
本来なら札幌から列車で行くのが踏切に対する「礼儀」かもしれないが、あいにく遠回りで本数が少なく最も早い列車でも12時を過ぎてしまうので、直通のバスにした。1時間35分ほどで夕張テニスコート前に着いたが、ほど近いファッション通り踏切は後回しにして、もうひとつ訪問したかった「若菜駅前通り踏切」へ行ってみよう。
バスを降りてから10分ほども歩いただろうか。交番を左へ入るとすぐ若菜駅前通り踏切であった。駅前と名乗ってはいるものの、若菜駅は現存しない。昭和46(1971)年に廃止された夕張鉄道のもので、消えた駅名をこの踏切が「記念碑」として今も守り続けているのだ。
夕張支線のレールのすぐ向こう側には、一段高くなった夕張鉄道の廃線跡が明瞭である。低い築堤を上ってみるとプラットホームの石積みが残っていた。4~5両ほどの客車が停められるだろうか。長い立派なホームだが、当然ながら屋根もベンチも、もちろん若菜を名乗っていたであろう駅名標も撤去されていた。
もと来た方へ引き返してファッション通り踏切へ向かう。実は来る前に北海道の鉄道の「生き字引」のような知人に由来を聞いていた。さすがにマイナーな踏切分野までは詳しくないだろうと思ったが、すでに調べはついていた。彼の話によればこの踏切の近くには夕張ドレスメーカー女学院があり、運営していたのが「ファッション洋裁学院」とのこと。由来がここまで判明してしまうと取材意欲が減退しそうになるが、やはり現地へ行けば何か得られるかもしれない。