この議論を進めていけば、核武装も例外ではない。核武装も、「国を守るため」には必要という議論が出て来るのは時間の問題になっているのではないだろうか。ちなみに、安倍総理は、以前、小型の核爆弾なら違憲ではないという趣旨の発言をしたことがある。
前述した通り、9条改正が実現すれば、強力な自衛隊を保持することが憲法上の義務となり、他の政策よりも優先するという解釈を生む。そうなれば、憲法25条の生存権よりも防衛費優先などという議論になってくるだろう。新たな条文として付け加えられたものは、それより前から書いてあることよりも優先だという解釈も主張されることは確実だ。
25条2項では、「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と書いてあるが、自民党案の9条の2が、自衛隊を「保持する」と言い切っているのに対して、25条2項が、単に「努めなければならない」としか書いていないのは、比較上いかにも弱い書き方になっている。
安倍政権の大盤振る舞いは続き防衛費は青天井に
来年度(19年度)予算では、19年10月の消費税増税対策と銘打って、莫大なばらまき予算が計上されることが確実だと、連日のように報道されている。もちろん、公共事業も、最も即効性が高い予算として、全国にばらまかれることになるだろう。よほどカネが余っているのかと錯覚しそうな勢いだ。
防衛費関連では、年末に向けて、新中期防衛力整備計画の策定が進んでいるが、ここでは、これまでの専守防衛を超える様々な装備を追加することが検討されている(「中期防衛力整備計画」という単語を入れてネット検索すれば、驚くほど多種多様な新しい装備品の導入が計画されていることがわかる)。また、トランプ大統領に媚びる安倍総理が、米国のほぼ言い値で武器を買う約束を立て続けにしているのはご承知のとおりだ。防衛費は、まるで青天井で、歯止めが失われてしまった感さえある。
その中で、削減の議論がされているのが、社会保障費だけ、というのは、前述した通り、「どこかおかしい」という違和感を生む原因となっている。
一言で言えば、国民から見たとき、いかにも「優先順位がおかしい」のだ。
憲法9条改正は、単に安全保障政策の問題と言うだけではすまない。今の議論には、国民生活をどこまで犠牲にして防衛費にかけるのかという論点が完全に欠落している。
戦後70年間、日本は、「軍事より国民生活優先」という戦略的路線を採ってきた。それが、今、百八十度転換して、「国民生活より軍事優先」の路線を採ろうとしている。
「国の形が変わる」とは、まさにこういう時に使う言葉ではないのか。
今のままでは、「国があっての国民生活だ!国防優先に決まっているだろう!」という乱暴な議論がまかり通ることになる。そうなる前に、冷静な議論をしておくべきではないのか。国民生活を視野の中心に置けば、安倍総理が考えている抑止力理論など、全く絵に描いた餅に過ぎないことがわかるはずだ。