巨人戦で審判の判定に激しく抗議する星野仙一さん=1981年 (c)朝日新聞社
巨人戦で審判の判定に激しく抗議する星野仙一さん=1981年 (c)朝日新聞社
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苦労した学生時代の思い出を語る江本孟紀さん。4月には自伝『野球バカは死なず』(文春新書)を発表した(撮影/西岡千史)
苦労した学生時代の思い出を語る江本孟紀さん。4月には自伝『野球バカは死なず』(文春新書)を発表した(撮影/西岡千史)

 江本孟紀さんが高校時代にエースとして活躍した高知商業は、チームメイトの不祥事で甲子園出場を辞退。野球部は解散し、夏の甲子園には予選すら出場できなかった。しかも、大きな心の傷を負った江本少年に、さらなる不運が襲う……。エモやんが自身の野球人生を振り返るシリーズ「エモヤンのわが野球人生」(全5回)の第2回をお届けする。

【写真】苦労の連続だった学生時代の思い出を語る江本孟紀さん

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 野球部が解散になったので、高校3年生の時はまったく野球をやっていません。それでも、甲子園の優勝候補のチームでエースでしたから、どこの大学のセレクションでも受けることができました。

 そして、長嶋茂雄さんに憧れていたこともあって、立教大の野球部を受けたんです。「長嶋さんの母校である立教大学で活躍して、プロに入るんだ」と思ってましたから。

 結果はもちろん合格。無事に内定が出て安心していたら、それが12月になって突然入学を断られた。どうも、大学の方針でスポーツ推薦の入学者を減らすことになったようです。春の甲子園に出場できなかったことに続いて、この時もショックを受けました。

 西鉄ライオンズからドラフト4位で指名されていましたが、たまたま法政大がセレクションをするという話が耳に入った。それであわてて電話をして、セレクションを受けると見事に合格。「捨てる神あれば、拾う神あり」とはこのことですね。上京して、川崎市・武蔵小杉にあった野球部の寮に入ることになりました。当時の寮は、野球部の中でもエリート選手しか入れなかった。いわゆる将来のチームの中心となる選手ばかり。

 ところが、当時の法大に限らず多くの大学は、1年生は軍隊式のシゴキの連続。ビンタ、ケツバットなんて当たり前。今の時代でいうパワハラなんてもんじゃなかった。しかも、私には1年のブランクがあった。最初の頃は調子がよかったけど、体力もあったがやはり一年のブランクのせいで不調に。そして突然ぎっくり腰になり、あげく監督と些細なことで言い争って、寮を出てしまった。しばらく先輩の知人宅に居候した後、高知の実家に。

それでも、オヤジは説教めいたことは一言も言わなかった。ただ、「しばらくこっちでゆっくり治せや」とだけ。この言葉で、もう一回頑張ってみようかなと思えました。

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ユニフォームを着ると性格が変わる星野さん