ところが、気づいたら、そうした配慮はどうでもよくなっていた。
一見すると相手を気づかっているようだが、実際は、相手とぎくしゃくすることで自分が損したくないだけではないか。また、十分に働けない私が他人の仕事ぶりに口を出すのはみっともないとしても、それで言葉を控えるとしたらやはり我が身かわいさに過ぎない。
もちろん、何か起きても「ここに書いてあります」という電化製品の説明書のように、長さが「言うだけのことを言った」というアリバイづくりになってはいけない。おおむね文章は短いほうが相手の心に届く。
人目を気にして言葉をのみ込まない。それは、世間に向けた文章ではいっそう大切なことだ。
先日、「『難治がん』の記者が信じるのは 難病のつらさを知る安倍晋三さんだ」というコラムを書いた。
こんなことを書いたら、病気などの危機を体験した政治家への見方が甘くなったと周りに思われないか。一瞬、そんなことを考えた。
病気になった朝日新聞の政治記者は、どんなものを書くのが「正解」なのか。
頭に浮かぶのは、中曽根康弘元首相の「暮れてなお 命の限り 蝉時雨(せみしぐれ)」という句だ。
せみは短い一生を、鳴いて終える。
今の政治や為政者のありようを厳しく指弾し、世の行く末を憂い、声を上げ続ける--。有り体にいえば、病気で味付けしながら社説をなぞっていけば、社内や愛読者からは「見事な散り際だ」と感心してもらえそうな気がする。
しかし、そんな物差しでいいのだろうか。
学生時代。記者とは他人と違うことに目をつけ、違うように書く仕事だと漠然と思っていた。だからこそ、病気といった他人と違う体験も生かしうる、一人ひとりがバラバラであることは強みなのだ、と。それがいつの間にか、できるだけ違いをなくし、「正解」の範囲内に収まるように、自らを寄せていく発想に逆転していた。
元首相が演じたような上司は、何を「正解」と考えているのだろう? 「上」の意向を忖度し、させる政治のありようを批判する人間のどこかにそんな感覚があるとしたら、それこそ笑えない。
◇
笑いといえば、メールに「(笑)」を使うかどうかで悩んだことがあった。
まだ、波風を気にしていた昨年の夏の話だ。