歴史上の人物が何の病気で死んだのかについて書かれた書物は多い。しかし、医学的問題が歴史の人物の行動にどのような影響を与えたかについて書かれたものは、そうないだろう。
日本大学医学部・早川智教授の著書『戦国武将を診る』(朝日新聞出版)はまさに、名だたる戦国武将たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析し、診断した稀有な本である。本書の中から、早川教授が診断した平清盛の症例を紹介したい。
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【平清盛(1118~1181)】
日本でも西洋でも、従来の権力構造を打ち破り、新しい時代を作った人物はしばしば独裁者として悪役にされる。
平安末期、武家として初めて太政大臣となり、江戸時代まで700年続く武家政治を開いた平清盛もその一人であろう。有名な『平家物語』の冒頭では、秦の趙高、漢の王莽、梁の周伊(朱)、唐の安禄山とならぶ謀反人にされている。実際には、天皇家自体に取って代わろうとする意図はなかった。
■平家の棟梁
平清盛は中級公家であった平忠盛の長男として、元永元年(1118年)に生まれた。保元・平治の乱で源氏をおさえ、絶大な武力と経済力を背景に中央政界に進出。仁安2年(1167年)に太政大臣となり、娘の徳子を高倉天皇の后とした。さらに徳子の生んだ幼い安徳天皇を即位させ、一族を高位高官につけて西国三十余国を知行国とし、500の荘園と大輪田泊(神戸港)による貿易を独占した。しかし、晩年には彼と一門の強権政治に朝廷や公家が反感を持ち、各地で源氏が挙兵するさなか、熱病で死去した。
『平家物語』巻第六では「入道相国、やまひつき給ひし日よりして、水をだにのどへも入給はず。身の内のあつき事、火をたくが如し。(中略)比叡山より千手井の水をくみくだし、石の舟にたゝへて、それにおりてひへたまへば、水おびたゝしくわきあがッて、程なく湯にぞなりにける」とある。高熱を癒すために水風呂に入れるとお湯になったというのである。