伊達政宗がもう一世代早く、また京近くに生まれていれば天下の覇を争うこともできたかもしれない (※写真はイメージ)
伊達政宗がもう一世代早く、また京近くに生まれていれば天下の覇を争うこともできたかもしれない (※写真はイメージ)
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 歴史上の人物が何の病気で死んだのかについて書かれた書物は多い。しかし、医学的問題が歴史の人物の行動にどのような影響を与えたかについて書かれたものは、そうないだろう。

 日本大学医学部・早川智教授の著書『戦国武将を診る』(朝日新聞出版)はまさに、名だたる戦国武将たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析し、診断した稀有な本である。本書の中から、早川教授が診断した伊達政宗の症例を紹介したい。

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【伊達政宗(1567~1636)】

 人間、生まれた時期と場所による運不運がある。戦国後期、東北地方を制覇した伊達政宗がもう一世代早く、また京近くに生まれていれば天下の覇を争うこともできただろう。

 伊達家は鎌倉時代から陸奥に勢力のある豪族だった。17代当主政宗は永禄10年(1567年)8月3日出羽国米沢城で生まれた。幼名梵天丸。18歳で父・輝宗の隠居を受けて家督を相続したがその直後、父が畠山義継に拉致され、父、義継ともに鉄砲で射殺という悲劇が起きる。反伊達を旗印とした奥州諸侯連合との激戦を経て、南奥州の大半を支配下に置いた。しかし、この時点で豊臣秀吉がほぼ天下を統一、志半ばにして天正18年(1590年)小田原に参陣した。その後は豊臣大名そして徳川大名としておとなしく振るまうが、領国の経済と軍備整備、支倉常長のローマ教皇庁派遣など、天下への思いは失っていなかった。3代将軍家光の治世となった寛永11年(1634年)頃から食事不振と嚥下困難が生じ、寛永13年(1636年)5月24日、死去。食道や噴門など上部消化管の悪性腫瘍ではないかとされている。

■独眼竜

 政宗といえば、独眼竜であるが、これは江戸時代に頼山陽がつけたあだ名で、在世当時のものではない。彼が片眼であったことは有名だったが、本人はこれを気にしていたらしく肖像画はすべて両方とも健眼に描いている。刀の鍔の眼帯は、東映時代劇の産物である。

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