本島南部の糸満市を取材した堀川幸太郎さんが挙げたのは、当時の集落の全景写真だ。赤瓦の屋根が並び、その先には穏やかな海が広がる。かつては士族にしか許されず、19世紀末になって庶民も建てることができるようになった赤瓦の家並みが広がる眺望は、漁業で栄えたこの街の豊かさを示していると堀川さんは話す。ただ、その様子を伝える写真はこれまで乏しかった。

「この写真を目にした83歳の女性は、自分が小さい頃の記憶が証明されたと喜んでいました。広い庭のある赤瓦の家とサンゴ礁の海が広がっていた記憶があったけれど、戦後に見た写真は貧しく思える風景ばかりと言っていました。自分が戦前の暮らしを美化していたんじゃないかとさえ思っていたそうです」

 その何気ない日常はこの写真が撮影された10年後、地上戦によって「地獄絵図」に変わった。県民の4人に1人が命を落としたと言われ、生き延びた人たちも多くは家や食べ物、生活に必要なものを失っていた。戸籍が焼失したために、沖縄にはいまも本当の誕生日や名前がわからない人たちがいる。家族との写真や思い出を記した日記など、たくさんの記録が失われただろう。唯一、持ち続けているはずの記憶にすら、確信を持てないようにされる。そんな、戦争がもたらした大きな断絶を、沖縄はいまも埋められずにいるのだ。

「写真群を紙面で公開すると、年配の方だけでなく、20代、30代の読者からも、じかに見たことがないはずの風景に『懐かしい』という声が寄せられました。それだけ沖縄の人たちは自分たちのルーツや原風景についての情報を求めているのだと思います」

堀川さんが選ぶ5枚目の写真には、麦わら帽子をかぶった漁師がダツなどの魚を吊り提げて、運ぶ様子が映されている。背後には、漁師が自分たちの資金でも行っていたとみられる埋め立て作業をする荷馬車と人の姿。笑顔で浜を走る裸足の少年も見える。

「この写真以外にも、原木からサバニ(木造舟)を作る様子、それに乗って釣りに出る男たち、それを待つ笑顔の女性たち、子どもたちが小さな船に乗って操船を覚えていく様子など、一連の写真に人々の暮らしを見ることができます。1枚ではなく、82年前の暮らしを連続的に、コマ送りするように見ることができる写真群として見つかったことがとても貴重なのです」

 当時、既に沖縄は観光地だったため、首里城や那覇の市場の写真は多く残っている。だが、こういった日常の活気ある様子をとらえたスナップ写真は極めて少ないのだ。

 何でもない日常が続いていくことが、どれだけ貴重なのか。

 82年前の沖縄の人たちの笑顔が、それを物語っている。(AERA dot.編集部・金城珠代)