確実に合格できるよう1年間建築の勉強をしなおし、早稲田大学大学院の修士課程に入学。池原研究室に所属した。

 今もよく覚えているのは、タンザニアの国会議事堂を設計するコンペに出たことだ。

「研究室の6、7人の仲間と相談しながら、自分たちなりに一生懸命やった。で、ある程度できたところで池原先生に見せたら全部ひっくり返されてね。もうみんなでブーブー(笑)。ある程度までは任せてみようっていう考えがあったんだと思うけど」

 完成予想図は小田さんが描いた。だが、コンペには勝てず、選ばれたのは気鋭の建築家・黒川紀章氏だった。しかし、学生もプロと同じ目線で熱心に取り組む周囲の雰囲気に刺激を受けた。

 一方で、東京に戻ってきたことで、高校時代からバンドを組んでいたメンバーと練習をする機会が増え、あきらめかけていた音楽をもう一度やりたいという気持ちが芽生えてきた。入学から1年経ったころ、池原教授に休学を申し出た。

「『音楽を一生懸命やりたいんです』って言ったら、先生は『好きなことをやりなさい』とやさしく言ってくれてね」

 休学中に、オフコースとしてファーストアルバムも出した。そして復学。修士論文を書き上げた。建築から音楽の道へと静かにシフトするつもりだった。が、事件は修士論文の発表会で起こった。

 論文のタイトルは「建築への訣別」。小田さんが感じた「建築の限界」を真摯に論じたものだ。

「自分の発表中に勢い余って『この建物(51号館)だってポリシーがない』というようなことを言ってしまい、途端に、場がどよめいちゃったんだよ」

 当時、修士論文の審査をしていた主任教授は、まさに51号館を設計した安東勝男教授その人だった。安東教授は「建築が悪くて、音楽ならいいというのかい」と怒り、同席していた池原教授は困り顔で場を取りなそうとした。その場で論文を読んだ安東教授には、「なんだ、ちゃんと書いてあるじゃないか」と評価されたが、結局、タイトルを「私的建築観」と変えることで論文は受理された。

「無理に研究室に入れてもらったのに休学したり、最後に主任教授を怒らせたり、とんでもなかった(笑)。まだその恩を池原先生に返していない。それはとっても心残りなんだ」

(文/ライター・小川真理子)

※『早稲田理工 by AERA2017』より抜粋

暮らしとモノ班 for promotion
「最後の国鉄特急形」 381系や185系も!2024年引退・近々引退しそうな鉄道をプラレールで!