歴史上の人物が何の病気で死んだのかについて書かれた書物は多い。しかし、医学的問題が歴史の人物の行動にどのような影響を与えたかについて書かれたものは、そうないだろう。
日本大学医学部・早川智教授の著書『戦国武将を診る』(朝日新聞出版)はまさに、名だたる戦国武将たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析し、診断した稀有な本である。本書で早川教授が診断した、大河ドラマ「真田丸」で話題の真田幸村の症例をダイジェストで紹介したい。
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真田幸村(1567~1615 年)
【診断・考察】血中テストステロン値上昇
戦国時代、鎧兜(よろいかぶと)などの具足、旗指物(はたさしもの)、槍(やり)、太刀などあらゆる武具を朱塗りにした部隊「赤備え」は、特に武勇に優れた名将がこれを率いた。鋭い錐のように赤備えが襲いかかると、敵は戦線を維持できずに崩壊したという。
赤備えといえば、大坂夏の陣で家康の本陣近くまで迫った真田信繁(通称幸村)が有名だが、最初に考案したのは甲斐の武田信玄とされる。信玄股肱(ここう)の勇将・飯富(おぶ)虎昌がこれを率い、没後は弟の山県昌景が継承、長篠の合戦で戦死するまで武田の先鋒を務めた。武田氏の滅亡後にその旧臣を召し抱えた徳川氏譜代の井伊直政は、武田にあやかった井伊の赤備えを編成し、小牧・長久手から関ケ原の合戦まで徳川の先鋒(せんぽう)を務め、「井伊の赤鬼」と恐れられた。
最も名高いのが、真田幸村である。飯富、山県と同じく武田家に仕えた真田昌幸の次男幸村は関ケ原の合戦の後、紀州九度山に幽閉されるが、見張りの浅野家将兵を酔わせて脱出、大坂城に参陣する。敗色濃い豊臣家であったが、彼の軍団は不敗であり、天王寺口の戦いで家康本陣を攻撃し、三方ケ原の戦い以来と言われる本陣突き崩しを成し遂げ、「真田日本一の兵 古よりの物語にもこれなき由」(薩藩旧記)と賞賛された。ただ、ここで力尽き、越前松平氏の侍大将、西尾仁左衛門に討たれている。
源平合戦以来、緋色は華やかな甲冑(かっちゅう)の基本色である。戦場で目立てば鉄砲や弓矢の標的になりやすいのに、なぜ派手な鎧を着て戦ったのであろうか。