歴史上の人物が何の病気で死んだのかについて書かれた書物は多い。しかし、医学的問題が歴史の人物の行動にどのような影響を与えたかについて書かれたものは、そうないだろう。
日本大学医学部・早川智教授の著書『戦国武将を診る』(朝日新聞出版)はまさに、名だたる戦国武将たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析し、診断した稀有な本である。特別に本書の中から、早川教授が診断した、悲劇の名将・石田三成の病を紹介したい。
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石田三成(1560~1600年)
【診断・考察】過敏性腸症候群(IBS)
秋になると柿の実が枝にたわわに実る。子規の「柿食えば」の句にある日本人の懐かしい原風景の一つだろう。この柿について昔から不思議に思うエピソードがある。関ケ原の合戦に敗れ、捕縛された石田三成が処刑直前に警護の侍に喉が乾いたので水を所望したところ、「水はないが、柿がある。代わりにこれを食せ」と言われ、三成が「柿は痰の毒であるのでいらない」と答えたという逸話である。警護の侍が「すぐに首を切られる者が、毒断ちして何になる」と笑ったところ、三成は「大志を持つ者は、最期の時まで命を惜しむものだ」と泰然としていたという(『茗話記』)。
多くの伝記は、三成が最後まで志を失わなかったという解釈をしている。しかし、古来、柿は東洋医学的には鎮咳去痰作用があるとされ(『本草綱目』)、三成ほどの教養人が知らなかったとは思えない。
石田三成は永禄3年(1560年)、近江(今の滋賀県)長浜の地侍の家に生まれ、寺で小僧をしていた15歳の頃、長浜城主であった羽柴秀吉に見いだされ家臣となった。鷹狩の途中、寺に寄った秀吉に最初薄くてぬるいお茶、次にやや熱いお茶、そして熱い濃茶を奉じたという有名な三献茶のエピソード(『砕玉話』)があるが、真偽は不明である。極めて事務能力に優れ、秀吉の天下統一の過程で重用され、豊臣家五奉行の一人として近江佐和山19万4000石に封ぜられた。秀吉没後の関ケ原の合戦では西軍の旗頭として出陣。西軍10万は数の上では東軍の8万を上まわる。(東軍の別働隊徳川秀忠と本多正信は中山道で真田昌幸に阻まれ、合戦には間に合わず)が、小早川秀秋らの裏切りで惨敗してしまう。伊吹山中に敗走した三成は9月21日、田中吉政に捉えられて京に護送され、10月1日に六条河原で小西行長や安国寺恵瓊とともに処刑された。享年41。
一説には三成自身、関ケ原の合戦前から下痢と腹痛に苦しめられ、十分な陣頭指揮がとれなかったという。