トゥキディデスの像(写真:gettyimages)
トゥキディデスの像(写真:gettyimages)
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 筆者の愛読する古典のひとつに、トゥキディデス(紀元前460年頃-紀元前395年)の『戦史』がある。もっともギリシア語は大学生時代、アリストテレス全集を翻訳された島崎三郎先生という大家に師事しながら3カ月で挫折し、希英対訳ローブの英語ページと岩波文庫の日本語訳版で読んだだけである。しかし、翻訳でも、国際間の緊張と駆け引き、国益よりも国民の受けを狙ったタカ派のポピュリスト政治家や、やたらに威勢の良い軍人、勝利のためには政治体制の異なる大国ペルシアから海軍を導入するスパルタ王など、人間と政争の本質は今もほとんど変わっていない。実際、欧米では、政治家や軍人を志す若者にヘロドトス『歴史』と並んで、トゥキディデスは必読の書なのだそうである。

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 ペルシア戦争で大国ペルシアの侵略を退けたギリシア諸都市国家は経済的・文化的に絶頂期を迎えるが、中心となったのがデロス同盟の盟主アテナイ(アテネ)である。

 宿命のライバルだったスパルタは国王以下軍事貴族の支配する農業主体の陸軍国であり、民主制と商業経済をバックとした海洋国アテナイの勃興に強い警戒感を持つ。そして紀元前431年、アテナイを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟との間に全ギリシア世界を巻き込む戦争が発生した。

■疫病とデマが変えた戦局

 当初アテナイは、優れた政治家だったペリクレスの指導下で優位に戦いを進めるが、ペリクレスの死後、好戦的なデマゴーグに煽られ、和議の機会を逸したのみならず、ペロポネソス同盟に食料や木材を供給していたシチリアへの遠征が失敗して4万の将兵を失った。さらにスパルタがアテナイへの通商ルートを封鎖。アテナイ海軍が、ペルシアの援助を得たスパルタ海軍に敗北してシーレーンが維持できず、屈辱的な和平を結ぶ。戦後スパルタが覇権を握るがやがてテーベに、そしてそのテーベも北方の蛮国マケドニア王国に破れて、ギリシア文明は衰退してゆく。

 アテナイの敗因の一つは、戦争初期の優れた指導者ペリクレス(紀元前495年-紀元前429年)が病に倒れたことであろう。

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アテナイの疾病は何だったのか?