古代ギリシア世界きっての雄弁家でもあったペリクレスは名門に生まれ、軍人としてのキャリアを積む一方、政治家としても傑出した才を示した。紀元前462年、民衆派のクーデターで議会の実権を奪い、全アテナイ市民の政治参加によるアテナイの元首となる。紀元前431年のスパルタによる攻撃を受けると、陸海軍の温存を図ってアテナイ市内に籠城し、ペルシア戦争同様に海上決戦の機会を待った。しかし翌年、城内に伝染病が発生し多くの市民が犠牲となり、市民の支持を急速に失うと同時に主戦派が実験を握り、ペリクレス自らも罹患して死亡してしまう。
このアテナイの疫病が何だったかという話題は多くの歴史家や医史学者の議論の的である。
紀元前431年の夏、南エチオピアに始まった流行病はエジプトとリビア、ペルシア、そしてギリシア本土に広がった。患者は高熱と鼻、眼、咽喉の強い痛みを訴え、咳と呼吸困難、数日のうちに激しい嘔吐を来たし、7~10日で激しいけいれんと脱水で死を迎えた。多くの患者が皮膚に赤い発疹を生じ、膿胞や潰瘍がみられた。熱と渇きのために泉や井戸に飛び込む者も多かったという。
■2千年が経っても人間は変わっていない
現代医学的な診断としては、発疹チフス、麻疹、痘瘡(とうそう)、腺ペスト、溶血性連鎖球菌感染、野兎病(やとびょう)、さらにラッサ熱やエボラ出血熱といった可能性があげられる。もしかしたら、今回の新型コロナウイルスのような新興感染症だったかもしれない。商業立国のアテナイは北アフリカを含む地中海諸国や遠く黒海沿岸まで植民都市があり、ペロポネソス戦争中も盛んな交易をおこなっていたからである。ただ、アテナイの人口が激減したという記録はなく、直接の犠牲者はそう多くはないらしい。
原因疾患がいずれにせよ、病気自体はアテナイの人口や軍事力を著しく減らすほどのものではない。流言飛語が飛び交い、そして不安にのって政府や指導者を攻撃、私利私欲に走るものが出て、さしもの超大国アテナイも没落に至った。