というのも、彼女の一周忌に筆者が中心になって発行した追悼本『ベスト・オブ・岡田有希子』のなかでこの曲をレビューしたファンはこんな実感を漏らしている。
「国生さゆりの『バレンタイン・キッス』は、どこのレコード店でも売切れ続出で、お祭みたいに売れているのにどうして二位なのだろう」
これは筆者も同感で、実際、この時点でのアーティストパワーを比較しても、国生(というか、おニャン子)のほうが上だった。岡田のシングル成績は、デビューから20位、14位、7位、4位、5位、7位と推移して、前作が5位。一方、国生はこれがデビュー曲とはいえ、おニャン子関連作品はすでに出せば必ず1位というゾーン状態に入っていた。
この差を埋めるために「くちびるNetwork」には作詞・松田聖子、作曲・坂本龍一、カネボウCMソングというハク付けがされていたが、1位という結果については、岡田サイドによる買い支え説も囁かれた。オリコンデータの対象店で大量買いを行ない、順位を上げるという昔からある裏ワザだ。
いずれにせよ、この1位獲得が「人気絶頂期の自殺」と報じられることにもつながった。自殺はともかく、人気絶頂というのは、事務所としても演出したかったイメージだろう。なにせ、彼女は「ポスト聖子」だったのだ。
80年にサンミュージックからデビューして、アイドルブームを牽引してきた松田聖子は85年6月に結婚、翌年10月には出産して「ママドル」と呼ばれることになる。つまり、アイドルとしての後継者を作る必要に迫られており、岡田は誰よりもその候補だった。その期待は84年のデビュー時からあり、そのため、彼女には正統派としての王道的方向性が強く打ち出されていたのである。
デビュー時のキャッチコピーは「ステキの国からやって来たリトル・プリンセス」。これはセカンドシングル「リトルプリンセス」にも活かされた。また、計4作のオリジナルアルバムは「シンデレラ」に始まって「FAIRY」「十月の人魚」「ヴィーナス誕生」と名付けられた。