野球界には、かつて「王2世」「清原2世」「○○のゴジラ」と呼ばれた選手が少なからず存在した。近年では、「○○のイチロー」と「○○のダル」が双璧だが、どちらも、そう呼ばれた選手は「活躍しない」イメージが強い。これは本当なのだろうか?
まずはイチローから検証してみよう。最初に「○○のイチロー」と呼ばれたのは、韓国・ヘテの李鍾範だった。
プロ3年目のイチローが打率3割8分5厘で首位打者を獲得し、日本新のシーズン210安打を記録するなど、一躍ブレイクした94年、李も3割9分3厘で首位打者、84盗塁で盗塁王に輝き、“韓国のイチロー”として並び称された。
その後、計3度の盗塁王を獲得した李は98年、中日に入団し、リーグこそ違うが、“本家”イチローに挑戦状を叩きつける。だが、同年に2割8分3厘をマークしたのが最高で、在籍4年間、一度も3割を打つことなく、退団した。
韓国球界からは、首位打者2度、最多安打4度の実績を持ち、これまた“韓国のイチロー”の異名をとった李炳圭が07年に中日入りしているが、こちらも在籍3年間、一度も3割をマークできなかった。
また、97年には、“台湾のイチロー”と呼ばれたルイスが巨人に入団したが、結果を出せず、シーズン途中で解雇された。結局、彼らは、イチローと同列で比較されたことがマイナスに働く結果になった。
だが、走攻守三拍子そろった“安打製造機”タイプの選手を「○○のイチロー」とたとえれば、マスコミ的にアピールしやすいのも事実。90年代後半以降、お膝元の日本でも、アマ球界で「○○のイチロー」が次々に誕生した。
“福六のイチロー”柴原洋(九州共立大)、“薩摩のイチロー”川崎宗則(鹿児島工)、“北陸のイチロー”天谷宗一郎(福井商)、“九州のイチロー”土谷鉄平(津久見)、“東都のイチロー”亀井善行(中大)、“みちのくのイチロー”橋本到(仙台育英)、“上州のイチロー”後藤駿太(前橋商)etc。