そもそも、千住という地名の由来は、
(1)1327年、新井図書政次が当時の荒川(現・隅田川)で網漁をしたところ、魚とともに千手観音を引き揚げて勝専寺に納めた。
(2)足利義政の愛妾(あいしょう)「千寿の前」の出生地
などの説がある。
江戸時代、当時の荒川に千住大橋を架けたあと、宿場町として栄え、後に千住北組、千住南組に変遷してゆく。明治時代に入ると、廃藩置県により当時の荒川を境に東京府と小菅県に分かれ、後に東京府に統合される。そして1932年、足立区と荒川区が発足したのである。
「千住」を名乗る駅は足立区側が多く、かつては東武鉄道に千住(貨物駅)と中千住、京成電鉄に西千住という駅も存在していた。一方、荒川区は今日に至るまで南千住のみである。
廃駅も含めると、「千住」を名乗る駅が2つの区に6つも存在していたことになる。都電が走っていた頃は、このほかに電停も存在していた。
■古河駅と新古河駅は県が異なる
埼玉県久喜市の栗橋駅は、JR東北本線(宇都宮線)と東武日光線が交わる。その隣駅に注目してほしい。栗橋駅を出発した両線は、まもなく東に進路を取り利根川を渡った東北本線の駅は茨城県古河市の古河駅になるのに対し、進路を西に取って利根川を渡った東武日光線は新古河駅になる。しかも新古河駅は埼玉県加須市に所在するのだ。両駅は渡良瀬川を隔てて、直線距離で約2キロメートルほど離れている。
東武鉄道が「新古河」と名付けたのは、JR(命名当時は国鉄)の駅と区別するためである。また、新古河の隣の柳生駅の近くには埼玉、群馬、栃木の県境が“平地で”隣接したのが珍しい「三県境」があり、2歩で3県を巡れると、隠れた観光スポットになっている。
なお、東武鉄道の駅名と所在地が一致しない例としては、東上線の下板橋駅は東京都豊島区に、東武練馬駅は板橋区に所在する。
■駅が県境をまたぐことも
極めつけは、ホームが県境をまたぐ駅も存在する。サントリー山崎蒸溜所や鉄道撮影地として有名なJR西日本の山崎駅は、京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町に所在するが、ホームの西側には大阪府との県境を示す標(しるべ)があり、府境が駅の敷地内をまたいでいるようだ。