プロの世界で投手では結果を出せず、野手転向後に大輪の花を咲かせた選手たちがいる。成功した選手たちを見ると打撃センスだけでなく、並外れた練習量で技術を磨いていたという共通点がある。通算2千安打を達成し、名球会入りした選手も。投手から野手に転向して大ブレークした代表的な選手たちを振り返ってみよう。
【写真】1980年に2000安打を達成した巨人のレジェンドといえば…
・川上哲治(巨人)
投手 39試合登板11勝9敗、防御率2.61
野手 1979試合出場 打率3割1分3厘、181本塁打、1319打点、220盗塁、2351安打
高い打撃技術で「打撃の神様」と形容され、プロ野球史上初の2千安打を達成した川上は、1938年に投手として巨人に入団している。熊本県立工高(現・熊本工高)で左腕を酷使した影響もあり、球威に乏しく目立った活躍ができなかった。1939年から野手も兼ねる「二刀流」の時期を経て、抜群の打撃センスで主力打者に。球界を代表する大打者として活躍した。首位打者5回、本塁打王2回、打点王3回、最多安打6回のタイトルを獲得。巨人の監督として65~73年まで前人未到のV9を達成したことでも有名だ。2013年、93歳で死去。
・柴田勲(巨人)
投手 6試合登板0勝2敗、防御率9.82
野手 2208試合出場、打率2割6分7厘、194本塁打、708打点、579盗塁、2018安打
法政二高(神奈川)で絶対的エースとして2度の全国制覇を達成。投手として入団したが、1年目の62年は結果を出せず、翌年から外野手にコンバートされた。本来は右打者だが、左打ちにも取り組んで日本初のスイッチヒッターに。俊足を武器に盗塁王を6回獲得し、巨人V9の先頭打者として打線を引っ張った。現役時代は「赤い手袋」がトレードマークとして知られ、女性人気も高かった。日本プロ野球名球会副理事長。
・石井琢朗(大洋、横浜、広島)
投手 28試合登板1勝4敗 防御率5.69
野手 2413試合出場、打率2割8分2厘、102本塁打、670打点、358盗塁、2432安打
足利工高(栃木)で2年夏にエースで甲子園に出場。89年にドラフト外で大洋(現・DeNA)に入団し、高卒1年目に初先発初勝利と華々しいデビューを飾るが、投手としての限界を感じて4年目から内野手に転向した。俊足巧打でリードオフマンに定着し、98年に球団史上38年ぶり2度目の日本一に大きく貢献。最多安打を2回、盗塁王を4回獲得した。遊撃手で1765試合出場は日本プロ野球機構(NPB)史上最多記録。現在は巨人で野手総合コーチを務める。