

哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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「大義名分を掲げると、ふだんなら許されないような攻撃的なふるまいが許される」と知ると他人に対して攻撃的になることを自制できない人たちがいる。私たちの社会はそういう人たちを一定の比率で含んでいる。
長く生きてきたので、いろいろな機会にそういう人たちを見てきた。最初に出会ったのは大学の構内だった。「階級的鉄槌を下す」というような空疎な政治的大義名分の下に、ふつうの学生がいきなり形相を変えて暴力的になるさまを見て、私は「人間というのは怖いものだ」と思った。
戦中派の人たちは戦時下に「お国のため」という大義名分の下に人間がどれくらい残虐になったり非道になったりできるのかを実見した。私の父は敗戦まで長く中国にいた。そこで何をしてきたのか、父は詳しく語ったことがない。でも、子どもの私に向かって繰り返し「人を見る時は、自分の哲学を持っているかどうかを見ろ」と教えた。子どもには難しい話だったが、父親の真剣なまなざしから、人間には、自分の手作りしたモラルに従って生きるものと、「人から借りた言葉」を振りまわすものの2種類がいること、後者を絶対に信じてはいけないという気迫のようなものを感じた。
コロナ禍の中で「自粛警察」というものが現れた(同じようなものはアメリカでも報告されている)。医療従事者の子どもを通園させるなと言い出した保護者がおり、県外ナンバーの車を煽った人たちがいた(アメリカではアジア人に暴力がふるわれた)。
彼らは別に公衆衛生に配慮してそのような行動をとっているわけではない。感染をスティグマ化すれば、感染経路不明の患者が増えるだけだから、「自粛警察」などというものは有害無益なのである。それでも、他人を傷つけたり、不快にしたり、屈辱感を与えることのできる大義名分を見つけると、その機会を見逃さない人たちがいる。
この人たちは、ふだんは穏やかなおじさんや気さくなおばさんの顔をして、ふつうに街を歩いている。彼らを識別する手がかりとして私は父に教わった基準しか知らない。「空語」や「定型句」を濫用する人間を信じるな。
※AERA 2020年6月1日号