そして描き始めると、一時間、二時間はアッという間です。観客は、すでに僕の頭の中には絵の構想が出来ていて、それに従って描いていると思っていますが、当の僕は、そんなものは何もないのです。筆の動くまま気の向くままです。いちいち筆を置いて考え始めると、手が止まって、次の筆が動きません。走り出したら、マラソンランナーです。最後まで走り続けるのみです。絵のゴールは、時間が来た時です。未完であっても、終了時間に止めます。
描いている時間は長いのか短いのか、自分でもよくわかりません。もしかしたら時間のないゾーンにはまり込んでいるのかも知れません。公開制作の絵は自分でも驚くほど大胆な絵になっています。早くこの場から逃れたいから、早描きです。普段アトリエでは、考えたりしてゆっくり描きますが公開の現場では頭は空っぽ、肉体感覚そのものです。絵を描いたというより、何かスポーツを行ったような感覚で、終わったらそのままシャワーを浴びたい気分です。絵は小説よりもスポーツに似ていますね。だから絵は肉体的なんですかね。ではお風呂に入って寝ます。
■瀬戸内寂聴「作家も画家も、体と心総動員の労働」
ヨコオさん
今度の「コロナから離れた話」面白かったですね。あなたが、ある時から、様々な場所で公開で絵を描きはじめ、それを一般人が、その場所に行き、じかに、自分の目で、ヨコオさんが絵を生みだす過程を見ることが出来るという、一種の新鮮なパフォーマンスが起こり、評判になっているのを、私も噂(うわさ)に聞いたり、テレビで、その情景を観(み)たりして知っていました。何をやっても、評判になる人だと、感心もしていました。
いざ、描きだしたら、画家はきっと、自分のまわりに押し寄せた群像が息を呑(の)んで、画家の筆が次には、どこに下されるか、またその筆の先には、どんな絵具(えのぐ)がつけられているのか、期待と好奇心に、わくわくしていることを感じるでしょう。画家は、意識していないかもしれないけれど、その日、画家の着ている衣服の一つ一つまで、見物の群像は見逃さないことでしょう。
ましてヨコオさんのように、何を着ても自分流に着こなしてしまうおしゃれさんの、晴れ舞台の衣装のすみずみまで見逃す筈(はず)はありません。次の週には、その時の仕事着の色や型が、どこかしら真似(まね)られて、町の盛り場を歩いていたりするのです。