彼らに加え、すでにシティポップの代表格であった大江千里やアイドル歌謡を変えたと言われる後藤次利なども作曲や編曲で参加している。アルバム『eyes』は、当時の「今」と「次」が絶妙にミックスされた作品だったと言える。

『eyes』の2年後に発売された3rdアルバム『BREATH』になると、のちにSPEEDのプロデューサーとなる伊秩弘将を作曲家としてデビューさせる。伊秩弘将とのコンビも4thアルバム『ribbon』、5thアルバム『Flower bed』と続いていく。さらには小室哲哉とともにやがて「TK時代」を築いていく小林武史も、8thアルバム『BIG WAVE』から渡辺美里の制作に加わっている。

 このように、その後の日本のポップミュージックで中心的な役割を占める多くのキープレイヤーたちが渡辺美里との仕事を通して羽ばたいていったことがわかる。この一点をとってみても、渡辺美里が日本のポピュラー音楽史に与えた影響はかなり大きい。

■20年連続で開催されたスタジアムライブと、パフォーマンスの雛形

 西武球場ライブについても触れないわけにはいかない。渡辺美里はデビュー翌年の1986年8月、大阪スタヂアムを皮切りに、名古屋城深井丸広場、西武ライオンズ球場でスタジアムコンサートを行った。これは日本の女性ソロシンガーとして初の試みである。以後、西武球場でのライブは20年間続き、のべ70万人を動員。1990年から2005年まではライブ当日に西武線で特別列車『MISATO TRAIN』が走るなど、夏の風物詩として世間に定着していった。スタジアムで歌うための歌として『サマータイムブルース』『夏が来た!』などの代表曲も生まれていった。

 しかし、はじめから長く続けることが決まっていたわけではない。第1回目の開催については、当時パーソナリティーをつとめていたラジオ番組の準備中に決まったという。リスナーから届けられた大量のハガキを読みながら、マネージャーからの提案に「うん、やってみる」と答えたそうだ。当時のことを彼女はこう語っている。

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