ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』の翻訳に『嵐が丘』などの古典新訳と、名だたる作品を鴻巣友季子さんは手がけてきた。「鴻巣訳」と呼ばれ、読者の心をつかむその独自の視線と鋭い言語力は、膨大な読書量と文学に精通する知識に裏打ちされる。書評家としても信頼が厚い。今、力を入れるのは、後進の育成。かつての自分を重ね合わせながら、後輩を力強く励ます。
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2月中旬の東京。大隈講堂に隣接する早稲田大学エクステンションセンターで、鴻巣友季子(56)が講師を務める社会人対象の「翻訳とは何か」第2回が開講されていた。定刻5分前に教室に姿を見せた翻訳家は空席を認めると「出歩くの嫌ですよね」と頷き、講義を始めた。
「日本は翻訳大国です。読者のレベルは高く、要求水準も高くて、加工するのには抵抗感がある一方で読みやすさも求める。翻訳家は大変です」
講義にしろ、講演にしろ、鴻巣の話はひとつのテーマが深い上に波紋を描くように広がっていく。
何しろ『風と共に去りぬ』の新訳を終えた後に、作者マーガレット・ミッチェルの人生まで辿って『謎とき「風と共に去りぬ」』を書き上げた人なのだ。この日の1時間半も、日本語にない罵倒語をどう訳すかという課題から現代文学の構造にまで話は及び、翻訳者としての心構えにも触れた。
「どれだけその視点に入り込んでいるか」
世界を舞台に活躍する作家が増え、かつて裏方と見られた翻訳家は知的で創造的な職業と認知されるようになった。鴻巣は「この人の訳なら」と思わせる翻訳家の一人だ。フェミニズム文学を先導するカナダのマーガレット・アトウッド、南アフリカ出身でノーベル文学賞受賞者のJ・M・クッツェーら「世界文学」の重要作品から、大古典『嵐が丘』の新訳まで、その仕事は「鴻巣訳」と呼ばれて、独自の視線と鋭い言語感覚、表現力で読者の心をつかむ。
「翻訳とは批評である」を信条とする鴻巣には書評家としての顔もある。膨大な読書量と古今東西の文学に精通する知識は、当然、翻訳にも反映されていく。いずれの顔も作家や編集者からの信頼も厚く、中島京子(56)は2冊目の小説『イトウの恋』が文庫化されたときに解説を頼んだほどだ。
「たまたま読んで面白いと思うものが、鴻巣さんの訳が多かった。翻訳が優れてるんです。読みやすくてユーモアがあって、解釈が面白い。私も翻訳をやったことがありますが、語学力はもちろん、知力も日本語力もいる。尊敬します」