その方はそのままお帰りになりました。しかしそれから数分後、黒いロールスロイスはまた戻ってきました。
「小林さん、本社に行って御社の社長に会ってきました。社長は5分でOKしましたよ」
もう、びっくりです。その行動力といい、何といい。私が話を断ったと聞いて、勤め先の社長も私に同じことを言いました。
「よもやまさか、断ると言うのですか? 相手は“金儲けの神様”ですよ」
その方とは後日改めてお話し合いをしましたが、やはり私の気持ちは変わらず、お断りをしました。時代はバブル期に向かっている華やかな頃でしたから、そのお話をお受けしていたら、私の人生もまた違ったものになっていたかもしれません。
しかしまだ新しい仕事が走り始めたところで、あれもこれもと手を出しても、すべてを「最高品質の仕事」にすることはできないものです。
仕事は1回でも質の低いものを残せば、それまで手にしてきた信用を一瞬で失うことになりますし、勤め先の信用にも関わります。仕事の質が落ちてきたとしても、それなりの立場になっていると誰も指摘してはくれません。だからこそ、質を落とすことにつながるような無理なスケジュールを組んだり、たくさんの仕事を抱え込まないように自分で調整していくことが大切だと私は思うのです。
ただ、その著名な実業家の方からのお誘いをお断りしたことは、当然のことながら会社中に知れ渡ってしまいました。そしてその後しばらくの間、社長からは「“金儲けの神様”をソデにした、小林照子さん」と言われ続けたことは、言うまでもありません。
【しなやかに生きる知恵】
自分の手に抱えられる仕事を見極める仕事の質を守ることが、自分の信用を守るのです
小林照子(こばやし・てるこ)
美容研究家。ヘア&メイクアップアーティスト。1935年、東京都生まれ。東京高等美容学院を卒業後、小林コーセー(現・コーセー)に美容部員として入社。数々の大ヒット商品を手掛け、85年、同社初の女性取締役に就任。その後独立・起業し、美容ビジネスの企業経営や後進を育てる学校運営をおこなっている。『人生は、「手」で変わる。』(朝日新聞出版)、『これはしない、あれはする』(サンマーク出版)、『なりたいようになりなさい』(日本実業出版社)、『美しく生きるヒント』(青春出版社)ほか著書多数