高校の時点でドラフト上位候補だったのに、進学や社会人入りを選んだ結果、プロになれなかった甲子園のスターといえば、まず思い出されるのが、1992年夏の甲子園優勝投手、西日本短大付の森尾和貴だ。
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甲子園では5試合すべて完投し、うち4試合までが完封。失点はわずか1だった。ドラフト前に高校生では、松井秀喜(星稜)や安達智次郎(村野工)とともにA評価を受けたが、「力的には通用しないと思っていた。プロは3、4年後に自信をつけてからでも遅くはない」と冷静に分析し、新日鉄八幡へ。
だが、入社後、すぐに肩を痛め、98年には肘を手術。思ったところに球が行かなくなり、「優勝投手がなんしょんか(何してるんだ)!」のヤジも飛んだ。
そんな逆境にも耐え、プロ入りをあきらめたあとも、03年に野球部が解散するまで11年間プレーを続け、完全燃焼した。現役晩年には「社会人で自分の力を出せなかったのは、けがのせいではなく、社会人のレベルが高かったから。プロに行かなかったという自分の選択は間違っていなかったと思います」と語っている。
94年夏の準V投手、樟南の福岡真一郎もけがに泣いた一人だ。九産大入学直後の春季リーグ戦でいきなり11連続奪三振のリーグ新記録(当時)を達成も、間もなく古傷の足、続いて右肩を痛め、在学中のほとんどをリハビリで明け暮れた。「大学卒業後はプロに行きたい」の夢も遠ざかる一方だった。
プリンスホテル入社後も肩は一向に良くならず、キャッチボールすらできなかった。「必ずもう一度マウンドに」と自らに言い聞かせながら、ビデオ撮影などの裏方を続けたが、入社2年目に野球部の廃部が決まり、現役を引退した。
廃部の直前、たまたま雑誌の夏の甲子園特集で本人を取材する機会があった。「最後の公式戦までにマウンドに立ちたい」と現役最後の目標を口にした取材後、カメラマンが撮影したユニホーム姿でボールを握っている写真を「記念に送ってください」と頼まれたとき、「このままマウンドに立つことなく終わってしまうことも覚悟しているのかも」と切ない思いに駆られたことを覚えている。
昨年の春夏、現役引退の翌年に誕生した長男が、筑陽学園の外野手として親子二代にわたる甲子園出場を実現。父の甲子園での雄姿とオーバーラップさせたファンも多かったはずだ。