金村 高校野球3年間の一番の思い出は?

松井 やはりケガですね。甲子園出場がかかっている大事な大会ではほとんど投げられませんでしたから。

金村 俺はその頃、近鉄の選手で、大阪大会が行われていた藤井寺球場(大阪府藤井寺市)でPL学園の選手をよく見てた。

松井 えっ、本当ですか?

金村 その時によく見てたのが清原和博や桑田真澄、立浪和義やった。

松井 すごいメンツですね。

金村 俺らよりPLの選手を見に来る人のほうが多くてな。まあ2軍の試合の観客は20人くらいやから仕方ないけどな(笑い)。

松井 いやいや、そんなことないでしょう。

金村 でも、稼頭央の存在はまったく知らんかった。「PLも弱なったなー」って思いながら見てた。

松井 それは強い世代を見すぎですよ。ケガばかりでしたけど、甲子園に出るという目標はまったくブレませんでしたね。

金村 俺らにとっては小学生の頃からの夢やもんな。それで、稼頭央は甲子園ではどうやったん?

松井 知ってるでしょう(笑い)。東海大相模(神奈川)との準々決勝(第64回選抜大会)で初登板して2回3分の2で交代です。試合前日に痛み止めの注射を打って投げました。

金村 当時は珍しくないよな。監督に「痛いか?」と聞かれても「痛くありません」と言うのが当たり前。

松井 中村順司監督から「行くぞ」と言われた時は、うれしくて仕方がなかった。やっと投げられるって。

金村 今と比べたら環境が全然違うよな。俺がいた報徳学園も160人くらい部員がおったからな。

松井 160人ですか?

金村 引退するときには20人前後まで減ったけどな(笑い)。グラウンドで練習できない部員がいっぱいおって、そういう部員にとっては、ランニングとグラウンド整備が練習やった。

松井 しかも、兵庫と大阪は甲子園に出るまでが大変ですからね。

金村 「近くて遠い甲子園」と言われるくらいやからな。周りは強豪校ばっかりやから練習は本当にキツかった。どんどんやせていくから、「敵に勝つ」言うて、トンカツとビフテキを一緒に食べさせられてな(笑い)。

松井 そうそう。暑いのにこんなに食えるかっていうね(笑い)。

金村 いま振り返れば、本当によくやってたよ。でも、そのおかげで甲子園で優勝できた。兵庫大会から一人で投げて、最終的には甲子園のマウンドでガッツポーズまでしてもうた。高野連からアカンて言われてんのに。そういうことをできたのは俺ぐらいやったな。

松井 この対談、僕、いらないんじゃないですか?

金村 高校野球の話やったら誰にも負けへん。それで、稼頭央は念願の甲子園で登板できて緊張した?

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