「恋のフーガ」「北酒場」「石狩挽歌」「まつり」……日本の歌謡史に輝く数多くの名曲を生み出し、さらに小説『長崎ぶらぶら節』で直木賞を受賞と昭和・平成を通して大活躍の作家・作詩家、なかにし礼さんが、23日、心筋梗塞のため都内の病院で亡くなりました。82歳でした。
故人をしのび、週刊朝日別冊『ハレやか』(2019年4月号)に語ってくれた、戦争体験からがん克服に至る波乱の半生を掲載する。
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「作って80%は当たる。ヒットなれして、わかっちゃった感じ」
「もの心ついてから、ゆっくり食べ、ゆっくり湯につかって、ああ、いい気持ちなんていう日、一日もありませんでした」
これ、取材に訪れた編集者が僕に見せてくれた「朝日新聞」のインタビュー記事の一部です。日付は1970年1月4日、初めて僕が「朝日新聞」に載ったときの記事だそうです。50年も前のことなので、よく覚えてはいませんが、われながらなまいきな30代だったようですね(笑)。でも確かに、僕の半生を振り返ってみれば、ここ二・三年くらいかな、ゆっくりできるようになったのは。
生まれは旧満州(現中国東北部)。父は醸造業「中西酒造」を興して成功し、裕福な家庭で育ちました。しかし、そんな生活が“見せかけの平和”だったことを思い知らされます。
1945年8月9日、突然、ソ連軍が満州へと侵攻してきました。僕たちは東京が空襲で焼け野原になったこと、広島に原爆が落とされたことさえも知りませんでしたから、まさに突然の出来事でした。命からがらの逃避行生活を余儀なくされ、ようやく引き揚げ船に乗って日本にたどり着いたときには、すでに終戦から1年が経っていました。当時6歳だった僕の目の前でたくさんの人が死に、まさに地獄絵図に放り込まれたような状態。父は再び日本の土を踏むことはかないませんでした。
日本では、父の実家である小樽でしばらく過ごしますが、そこへ戦死したと聞いていた兄が復員してきます。無事を喜んだのもつかの間、兄は祖母の家を勝手に抵当に入れて借金をし、一獲千金を狙ってニシン漁に大金を賭けて大失敗。家族は小樽を追い出され、青森、東京と移りますが、平穏とは程遠い少年時代を送っていました。