ようやくお泊まりのホテルにたどり着くと、迂回してしまったこともあって、料金は8000円を超えていました。お客様が、君のために言うんだけれど、君は絶対この仕事に向いていないからやめた方がいいよとおっしゃるので、お詫びを申し上げて、迂回してしまったので料金はいりませんと言うと、黙って降りていかれました。
ところが、ふとトレイを見ると一万円札が置いてあるんです。後で、会社にクレームが来ると困ると思って、その一万円札はいまでも会社に預かってもらっていますが、いまのところクレームにはなっていません。あの一万円札は、男性のプライドなんでしょうか。偉い方だから払わないのもあれなんで、お金を投げ捨てていかれたのでしょうか」
仲村はひとりで営業に出るようになって10カ月たったいまも、毎日毎日、ハラハラしながら運転をしている。自信がない道を走るのは怖いので、指示された目的地にたどり着いて客を降ろしたら、すぐさまホームグラウンドに取って返すことにしている。男性のドライバーたちはあちらこちら走り回るのが楽しいというが、仲村は決まった道をぐるぐる回っているのが一番安心だ。遠くまで走ったら、一刻も早くホームグラウンドに戻りたいと思う。
ちなみに、仲村のホームグラウンドは六本木界隈である。営業所を出たら、まっしぐらに千代田区の大手門を目指して走り、皇居の内堀を回って六本木通りに入り、西麻布交差点を左折して、六本木を中心に大きく円を描きながらぐるぐる回り続ける。六本木界隈を流していれば、それなりに手が挙がる。
タクシーの仕事は面白いかと聞くと、意外な言葉が返ってきた。
「お客さまをじろじろ見ると悪いと思うので、なるべくお顔は見ないようにしていますが、タクシーは密室なので、お客様がつけているコロンの香りがよくわかるんです。ルームミラーにお洋服も映るので、ああいい香りのコロンをつけたおしゃれな方だなとか、ずいぶんきつい香りをつけてるな、どんな仕事の方なんだろうなんて想像してみたり。