当時のヤクルトは投手、野手ともに日本人の主力選手はほとんどが20代。しばしば「ヤングスワローズ」と呼ばれ、しかも1980年代はほぼBクラスの球団がいきなりの躍進を遂げたことで、時ならぬ“バブル”が訪れる。

 ソフトバンクモバイルとなった今では考えられないが、その前身である東京デジタルホンのCMには「ツバメ商事」の社員という設定で野村監督以下、古田敦也、廣澤克実(当時の登録名は広沢克己)、池山隆寛(現ヤクルト二軍監督)、荒木大輔(現日本ハム投手コーチ)などの主力選手が揃って出演。街中のゲームセンターに行けば、UFOキャッチャーのケースには誕生したばかりのマスコット・つば九郎はもとより、野村監督、古田、廣澤、池山らのぬいぐるみまでがプライズとして置かれるようになっていた。

 果ては俳優・真田広之がヤクルトの選手に扮した映画『ヒーローインタビュー』が全国ロードショーで公開。その中で武田鉄矢が演じたヤクルトの監督もどこか野村監督を思わせるなど、一時的にではあれ「スワローズ」が社会現象のようになっていく中で、そこには常に「野村克也」がいた。

 黄金期と言いながらも、リーグ連覇は1度きりで、その後は4位と優勝(日本一)を1年おきに繰り返したのは、ある意味でヤクルトらしいといえる。それでも1990年代のリーグ優勝4回は巨人の3回を抑えてセではトップであり、日本一3回は西武と並んで両リーグ最多。野村氏は南海時代も選手兼任監督としてリーグ優勝を成し遂げているが、真の意味で監督として評価されたのがヤクルト時代だったのは間違いない。

 1998年限りでヤクルトを退団した後も、野村氏は阪神、社会人・シダックス、そして楽天で監督を務め、選手としても監督としても3000試合以上出場というメジャーリーグにもない記録をつくり上げた。だが、思い入れが最も強いのは、自身にとっての“黄金期”でもあるヤクルト時代に違いない。

 2019年7月に神宮球場で開催された『オープンハウスpresents SWALLOWS DREAM GAME』。ヤクルト球団初のOB戦であるこの試合に監督として出場した野村氏は、愛弟子の古田に促されて初めてヤクルトのユニフォーム姿で打席に立ち、42年ぶりの“プレーイングマネジャー”復活を果たすと、試合終了後には古田や当時の小川淳司監督(現ヤクルトGM)らに体を支えられながら、マイクを握った。

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「スワローズには足を向けて寝られません」