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病気や災害、自死などで親を亡くした遺児の進学を支えているあしなが育英会。東日本大震災でも、震災発生直後から親をなくした遺児への支援に積極的に取り組んできた。自らも宮城県で被災し、大学卒業後からあしなが育英会の職員として、遺児たちのサポートを続けてきた山下高文さんが書籍『お空から、ちゃんと見ててね。―作文集・東日本大震災遺児たちの10年』(あしなが育英会・編)に寄せた手記を紹介する。
【遺児支援の一環として10年間にわたり継続してきた作文によるケアプログラム】
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「東日本大震災」と聞くと、私の頭には二つの記憶が浮かぶ。一つは自分自身の震災体験。もう一つは震災から1カ月後に訪ねた岩手県陸前高田市の光景とにおいだ。震災後の10年はとても長い年月だったが、震災直後の記憶はついこの間の出来事のように、強烈に胸に刻まれている。
地震が起きた時、私は宮城県の大学生だった。ラーメン屋のアルバイトで食器の片づけをしている時に大きな揺れを感じ、窓越しに波打つ道路と、たわむ電柱を見た衝撃を今も覚えている。
■火災の影響で赤く染まっていた夜空
その日は雪が降っていた。春休み期間だったが、夕方には学生が続々と大学に集まった。みんな、この地震の大きさに気づき始めていた。それから数日間は、大学の食堂でサークルの友人たちと過ごすこととなった。
何度も繰り返す余震、街じゅうのガス漏れのにおい、亀裂の入った住宅……。割れた窓に恐怖を抱きながら、日中は友人同士で協力して部屋の片づけをしたり、自宅の食料をかき集めて分け合ったり、家族や友人の安否確認で一喜一憂した。
夜になると毛布にくるまりながら、床に寝転んだり、机に伏せたりして休んだ。全然休めた気はしなかった。外に出ると、どこかで起きた火災の影響で夜空が赤く染まっていた。数日後に電力が復旧し、携帯やパソコン、テレビが使えるようになり、そこで初めて津波の映像を見て、地震がもたらした計り知れない被害を知った。自分の常識をはるかに超えた、別次元の災害がそこでは起こっていた。