入団会見で「50セーブを目指したい」とぶち上げたのが、05年に巨人に入団したダン・ミセリだ。
メジャー12年間で通算41勝48敗35セーブの実績を持つ最速98マイル(約158キロ)の剛腕は、3年ぶりのV奪回を狙う巨人の守護神として君臨するはずだった。
ところが、常時150キロを超えるという触れ込みの速球が、140キロ台前半止まり。4月1日の開幕戦、広島戦で、2対1とリードした9回に初登板をはたしたが、球威不足からいきなりラロッカに同点ソロを許したあと、緒方孝市に決勝2ランを浴び、まさかの黒星デビューとなった。
さらに2度目の登板となった同5日の横浜戦でも、3対3の延長12回、先頭の金城龍彦に二塁打を許し、1死一、二塁から多村仁に中堅フェンス直撃のサヨナラ打を浴びて、2敗目。翌6日の横浜戦では、延長11回に巨人が高橋由伸の左越えソロで8対7と勝ち越すと、登板を熱望した横浜ファンから“ミセリコール”が起きる珍事も。
結局、登板4試合で0勝2敗、防御率23.63という悲惨な成績で、4月19日、球団史上最速の自由契約となった。2軍で再調整を指示する首脳陣に対し、「本人の同意なしに2軍に落とせない」の契約条項をタテに断固拒否したため、解雇せざるを得なかったのだ。
退団当日も、東京ドームで荷物をまとめたあと、家族と浅草観光を楽しんだことがファンの反感を買い、“仲見世リ”の異名を残した。
それでも、マドロックとミセリは試合に出た分、まだましかもしれない。
入団テストに合格し、シーズン15勝を約束しておきながら、初月給を貰った直後、ドロンと蒸発してしまったのが、74年に日本ハムと契約したバール・スノーだ。
レッズ傘下の1Aで2年間プレーし、2勝5敗の成績を残したスノーは、その後、大学野球部のコーチを務めていたが、同年3月、来日して日本ハムの入団テストを受験した。
当時の日本ハムは、エース・金田留広が、自ら志願して兄・正一が監督を務めるロッテに移籍した直後で、投手不足。さっそくテストしたところ、低めにビシビシ速球が決まる。打席に立った張本勲も「なかなかいい」と褒め、十分戦力になりそうだった。