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今年は、聖徳太子の「千四百年御聖忌」にあたるということで、由縁の奈良・法隆寺や大阪・四天王寺で関連行事が行われるほか、奈良博やトーハクでも、「聖徳太子と法隆寺」という特別展が予定されている。博物館では、秘仏や国宝仏などがズラリ展示されるほか、聖徳太子にまつわる品々が一堂に会し聖徳太子信仰の一端を知ることができる。
●今では「厩戸王」として学ぶ
お札の顔になったほど日本人にとってよく知られた人物であるが、教科書でその名の言い換えが始まってからかなりたつ。現在は主に厩戸王(うまやどおう)として掲載されているが、聖徳太子は有名人の割に謎の多い人物ではあるのだ。実在したかどうかも含めて研究も盛んにされているが、大化の改新(乙巳の変)以前の歴史については不明な点、不可解な点なども多いことから、謎に包まれているのは聖徳太子に限ったことではない。現在、日本の正史とされる「日本書紀」の成立が奈良時代(完成は720年)で、それ以前にあったとされる「国記」や「天皇記」「帝紀」などは現存せず、大化の改新以前の歴史は日本書紀によって書き換えられたと考えられてもいる。
聖徳太子信仰が盛んとなったのは、平安時代後期から鎌倉時代にかけてと言われる。特に鎌倉仏教と言われる宗派の開祖である法然(浄土宗)や親鸞(浄土真宗)、一遍(時宗)などが熱心で、この頃、多くの聖徳太子像が彫刻された。現在残る「太子堂」などと呼ばれる聖徳太子を祀るお寺などはこれらの宗派に属することが多い。
●今でも通用する「十七条憲法」
聖徳太子は、第31代・用明天皇の皇子として574年に誕生した。厩戸前で産まれたことから、あるいは母の実家(当時はおじ・蘇我馬子の家)で産まれたから「厩戸」と名付けられたなど言い伝えは各種ある。聖徳太子という名は、死後100年以上過ぎたころからの文献で散見できるようになった。
聖徳太子の業績といえば、「冠位十二階」や「十七条憲法」を制定し、遣隋使を派遣、伝来したばかりの仏教を保護したことなどで知られる。特に「以和爲貴、無忤爲宗。(和を最も大切なものとし、争わないように)」で始まる「十七条憲法」は、現代までに通じる法であることに驚きを隠せない。17条目に至っては、現在の私たちがもっとも失っている「協議」がなぜ必要で大切なのかを説き、政治の根本が書かれている。