●太子の姿ではない?「唐本御影」

 聖徳太子に関わる謎はいくつも挙げられるが、ひとつは我々がよく知る、お札にもなった「唐本御影」から取られた姿が、身につける装束が当時のものではないこと(死後数十年後の服装)が判明、現在は「伝・聖徳太子」像と紹介されることも多くなっている。

 また、父・用明天皇亡き後、おばである推古天皇が即位し長生きをしたことから、皇子でありまた優れた政治手腕を見せながら天皇になれなかったこと、法隆寺のある斑鳩に住むことは当時の政治の中心から離れていたのではないかなど、いくつもの疑問が投げかけられている。一方で、黒駒という神馬で富士山までひとっ飛びしたとか、予言の書・未来記がのちの時代の武将の運命を言い当てていたなど、人間の力を超えた逸話も残されている。中でも、法隆寺に関してはさまざまな解釈がなされる。

●意外と知られていない太子のその後

 天皇の血筋であり、高い能力を見せた聖徳太子の血筋は、すぐに絶えている。推古天皇崩御後の後継問題から蘇我氏との間で諍いが起き、結局、斑鳩宮が襲撃され最終的に聖徳太子の一族は全員自害して果てることになる。これを指示したのが、蘇我入鹿であり、やがて乙巳の変で暗殺されることになる。
日本書紀は乙巳の変を契機に天皇となる天武天皇(大海人皇子)の指示により編纂された歴史書であり、聖徳太子を偉人として高め、貴人を根絶やしにした蘇我氏を成敗した歴史が完結するのである。

●正しい命日はいったいいつ?

 ところが、不思議なことにその日本書紀によれば、聖徳太子の命日は推古天皇29(621)年2月5日、享年49とある。ところが現在、太子の命日は推古天皇30(622)年2月22日とされているのである。死因は、病死とも暗殺とも、自死とも言われ、最愛の妃とともに亡くなっている(妃は1日前に亡くなっている)。亡くなった翌年2月22日に大きな法要が行われた記録があり、それが混同されたのではとも言われているが、1400年後も間違った日にちのままというのは何とも解せない。

 聖徳太子の御等身の像と伝えられてきた、法隆寺夢殿に安置されていた救世観音菩薩像は、13世紀以降は秘仏として非公開を続けてきたものだが、明治時代に国からの調査によりようやく公開された時には、500メートル近い布で包まれていたという。秘仏とされてきた理由は、この像が聖徳太子の怨霊を鎮めるために造られたものと信じられてきたためだとか。

 さて、もうひとつ不思議なことがある。日本書紀の記述とは異なる聖徳太子の命日である2月22日は、現在の暦に直すと4月8日、なんと日本ではお釈迦さまの誕生日としてお祝いをする灌仏会なのである。太陽暦が取り入れられるまで、一致することはなかった偶然であろうか。日本書紀を元に考えれば、「千四百年御聖忌」は昨年行われるべき行事である。聖徳太子関連については、日本書紀は無視されているに等しい。聖徳太子の謎は深まるばかりである。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)

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