●他人の逸話がゴチャ混ぜに
徳川綱吉は、「生類憐れみの令」という悪法を堅持したことで評価の低い将軍であるが、この時代、神社仏閣の整備を数多く行っている。大型の公共事業は、江戸の町に仕事を増やし大いに人々は潤った。加えて、火事が多いことで知られる江戸は常に建築がいたるところで行われている。これに目をつけた文左衛門は、材木商への道を歩むことになる。江戸に出てきた当初、河村瑞賢と関わりがあったこととも関係があっただろう。材木商として立身し、航路の開拓などで幕閣ともつきあいのあった瑞賢のエピソードが、のちの時代、文左衛門の話として世に広められたことも、混乱と不確実さを増幅させたに違いない。
●豪商への始まりは寛永寺根本中堂の造営
さて、文左衛門の最期はほんとうに生活に困窮していたのだろうか。文左衛門28歳の時、綱吉が行った寛永寺の根本中堂の造営事業に要する材木の入札が行われた。この入札に知恵で勝った文左衛門は50万両ほどの利益を上げたとも言われている。これについては、実際に静岡の山から材木を切り出したという記録が残り、こののちにも香取神宮などにも用材を納め利益をあげたとも記されていることから、寛永寺以後も湯水のように使う以上に儲けを出していたと考えられる。
ちなみに、寛永寺は、翌年の完成直後に大火に見舞われた(「勅額火事」と呼ばれる由縁は「瑠璃殿」の勅額が京都から届いた日に出火したため)。完成したばかりの根本中堂と文殊堂はかろうじて類焼を免れたが、本坊や仁王門、4代将軍・家綱の霊廟も焼け落ちた。南町奉行所、老中・柳沢吉保の屋敷も焼失、326町が焼かれた。
●引退後の生活は俳諧三昧
これほどの儲けを生涯かけても使いきれるだろうか。貨幣改鋳事業に手を出し失敗したとか、保有していた木材を火事ですべて失ったといった逸話も残り、全財産を失っていた可能性もないではない。一方で、引退後の享保5(1720)年、回向院から出火した火事が霊巌寺・深川八幡宮を焼くほどの被害を出した折、復興にと文左衛門は深川八幡宮に三体の神輿を寄進している。また、松尾芭蕉の弟子であった其角などとも交流し、隠居時代に多くの俳句を残していたり、質素な姿にもかかわらず自分を見分け親切を受けた際には、礼として1両を与えたりもしている。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)
伝説の紀伊国屋文左衛門だが、東京にはいくつかの名残が残る。江東区にある清澄庭園は文左衛門の屋敷跡と言われているが、その南、永代一丁目に「紀文稲荷神社」があり、ここも屋敷跡とされている。つまり、大名屋敷なみに広い家だったということなのだろう。現在、紀伊国屋文左衛門は清澄庭園の東側に位置する成等院のお墓に眠っている。もちろん、紀伊国である和歌山には像や碑がいくつも建てられているが、生年とともに故郷の地ははっきりしない。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)