そういう意味で、この3曲は同じカテゴリーのものなのかもしれない。いつの時代にも必要とされる、大衆の鬱積した気分を代弁して発散させるようなナンバー。ただ「少女A」で気になるのは、本人が当初嫌がっていたのに、あそこまでハマったという事実だ。
歌手と作品の関係性を考えた場合、本人のなかにまったくなかったものが反映され、ヒットに結びつくことはまずない。聖子のぶりっこソングはそのちやほやされたいという並外れた願望によってパワーを得たし、百恵のツッパリソングは父親から虐げられた実体験によって説得力を増した。明菜についても、不良っぽさなどとは別の鬱積した何かがあり、それが「少女A」によって解き放たれたと見ることも可能だ。
そのパフォーマンスはファンだけでなく、プロをも瞠目させた。たとえば、佐野元春はサビでのステップについて「プログレッシブなものを感じる」などと発言。明菜は歌のみならず、あらゆる部分で独特の魅力をアピールしたのである。
ただ「少女A」でのブレークはちょっぴり不幸なことでもあった。そのハマり具合が魅力的すぎたために、多くの人が彼女のイメージを同化させ、本人もまた、メディア対応などを通してやや同化してしまったふしもあるからだ。
「少女A」は不機嫌な歌姫としての原点であり、そうあり続けることを宿命づけた曲といえる。明菜のカリスマ化も試練も、そこから始まった。
※「後編」の「中森明菜『飾りじゃないのよ涙は』の秋元康もうらやんだ傑作性」に続く
●宝泉薫(ほうせん・かおる)/1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』『宝島30』『テレビブロス』などに執筆する。著書に『平成の死 追悼は生きる糧』『平成「一発屋」見聞録』『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』など