運命の分かれ道となったのは、同21日の広島戦。笘篠が2打席連続三振に倒れると、野村監督は5回の3打席目、捕手から内野手にコンバートされたばかりの高卒4年目、飯田哲也を代打に送った。2回1死一塁で、二ゴロを処理した際に、「(併殺を焦って)考えられん悪送球をやりおった」というのが理由だが、指示に従わず、一発長打を狙いつづけることに対する“懲罰交代”にも思われた。

 飯田は左翼席中段にプロ1号を放ち、6回にも右前安打の3打数2安打。そして、この試合をきっかけに、笘篠に代わってレギュラーに定着する。結果論だが、後にゴールデングラブ賞を7度受賞する“天才”の台頭時期と重なったのも、不運だった。

 笘篠は翌91年、主に2番打者として112試合に出場したものの、右肩の古傷が悪化し、打撃、守備両面に影響が出たことも災いし、年々出場機会が減る。94年に再起をかけて肩を手術したが、1年目の輝きは戻ることなく、99年の広島を最後にユニホームを脱いだ。

 チームメートだった橋上秀樹氏は、肩の状態から選手生命が長くないと覚悟していた笘篠が、「残された人生は、自分のプレースタイルを貫いて、それで監督が気に入らなければ仕方がない」(「野村克也に挑んだ13人のサムライたち」双葉社)と腹を括っていたのでは?と、その心中を慮っている。(文・久保田龍雄)

●プロフィール
久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍プロ野球B級ニュース事件簿2020」(野球文明叢書)。

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久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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