村西とおる氏や黒木香さんは確かに一つの時代を築いた人たちだった。AVをサブカル、という文化にするほどの影響力を与えたのは事実だ。なにより当時、知識人男性たちがAVを面白がって語るような傾向があった。こぞって黒木香と対談し、何か新しい時代が築かれていくような錯覚を誰もがしていた。私も大学生だったから覚えている。同じ世代の女性がセックスを堂々と表現している、なんてカッコイイ!と思うような空気もなかったわけじゃない。セックスを堂々と、とにかく堂々と、エロを恥じずに堂々と!というのが時代の空気としてあったのは確かだ。
でも、どうなのだろう。昭和の終わりの時代をすさまじい勢いで駆け抜けた後の平成すら終わった今。AV産業の被害者の声が次々に出てきている2021年。「過去を忘れたい」という悲痛な声が社会問題化されている現在。今さら、エロ免罪、表現免罪、という免罪符でNetflixの「全裸監督」を面白がる鈍さは、かなり問題なのではないだろうか。
というか、黒木香さんに許可を得ているのか?とシンプルにNetflix には問いたい。
さて。今回、「全裸監督」のことを書いているのは、“紀州のドン・ファン”のことがあまりにもニュースになっていたからだ。パンデミックで深刻な今の日本で何でこんなニュースがトップになるのよ!とあきれながらもドン・ファン関連ニュースを読んでいたら、ドン・ファンと村西とおる氏が私には重なって見えてきたのだ。
ドン・ファン1941年生まれ、村西とおる氏1948年生まれ。7歳違うが、戦後の日本社会を生き抜いた男性たちが信じてきた価値、見てきた景色はとても似ている。田舎で貧しい家から、学歴も人脈もないなか、高度成長期の狂乱を生き、パワーを得るために何でもやってやろうとあがくようにめちゃくちゃにカネを儲ける。ドン・ファン氏は1960年代にコンドームを大量に個人宅に売り歩き財産を築く一歩にしたと、自伝にあった(読んだ)。その時の経験から、「エロ」へのこだわりを強めていく。人生に勝利するためには、エロとカネが絶対条件だとでもいうように、“エロ=女体=カネ=権力”にこだわる悲しいまでの貧しさは、どこか村西とおる氏の人生と重なった。というか「全裸監督」と描かれる男たちの価値観と重なった。