人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は、「いまを生きる山崎博昭」。
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一組のDVDが送られてきた。上巻が96分、下巻が104分、計200分。映画『きみが死んだあとで』。10.8山崎博昭プロジェクトから生まれた作品である。関係者の証言による代島治彦監督のドキュメンタリー映画だ。だいぶ前に届いたのだが、続けて見る時間がとれなかったのと、私の心情に深く入り込むことを恐れて、ゴールデンウィーク前になってしまった。
折しも緊急事態宣言発令後、画面に魅入られるように時間が経った。
1967年10月8日、佐藤栄作首相(当時)の南ベトナム訪問阻止を目的とする、いわゆる第一次羽田闘争で、一人の若者が死んだ。羽田空港に近い弁天橋で。18歳の京都大学一年生、名は山崎博昭。はじめてヘルメット、ゲバ棒で武装した学生が機動隊と激突した。
機動隊に頭を乱打されたか、装甲車に轢(ひ)かれたか、死因は色々取り沙汰されているが、彼の死は同世代の若者達に大きなショックを与え、その後、学生運動が過激化するきっかけとなった。
彼と共に闘い、権力に立ち向かった高校や大学の同級生や先輩達は50年以上の年を重ねた。彼ら14人が語り継ぐ事件の真実と、異様に輝いていた青春、そしてその後の悔恨を通して、山崎博昭の死とは何だったのかを私達に問いかける。
その中には私の知る詩人の佐々木幹郎、大手前高校で山崎と席を並べ、最初にマルクス主義研究会に誘った友人や、作家の三田誠広らがいる。みんなでイヤミの「シェー」の格好をして記念写真を撮るなどの思い出も残る。京大にストレートで入った山崎は中核派に入り、反戦運動に参加していく。
私は山崎君と同じ大手前高校の出身で、十年ほど先輩になる。あの時の衝撃を忘れない。NHKという大組織の中で何も出来ない自分がいた。
彼らの純粋な情熱に惹かれ、のちにフリーになった私はマスコミの一員として激しさを増す学生運動を取材することになる。中でも王子の米軍野戦病院の闘争では、学生と一緒に逃げ惑ったが、当時は扉を開けて学生を家にかくまう人達もいた。