「嗅覚をよりポジティブにサービス展開していくことで、五感をバランスよく使うことにもつながります」
嗅覚感覚の全容解明と社会実装には、あと10年はかかりそうだという。
■遠隔地で匂いを再現 通販で商品の香りを嗅ぐ
遠隔地で匂いを再現するシステムの開発に取り組むのが、東京工業大学の中本高道教授だ。
匂い分子は嗅覚細胞にある嗅覚受容体と結合する。その結果、受容体が活性化され、嗅覚細胞の内と外の間に電位差が生じ、匂いの電気信号として脳へ運ばれる。この匂い分子ごとに異なる応答パターンを脳の中で認識し、どのような匂いかを識別すると考えられている。
中本教授は脳の神経回路の一部を模した数理モデル(ニューラルネットワーク)を用いて応答パターンをデータ認識し、匂いの識別を行うセンシングシステムを開発してきた。いわば嗅覚のデジタル化だ。
ただ、世の中に存在する匂い分子は膨大になる。そこで、匂いを構成する基礎になる「要素臭」を見つけ出すことにした。最初に取り組んだのは系統立てて入手しやすい約200種類の精油だ。植物の香り成分に由来するこれらの香りをデータ解析し、要素臭を20~30に絞り込んだ。これらを調合して、オーガニックオレンジ、ブラックペッパー、ペパーミントといった香りのイミテーションをつくり、どれくらいオリジナルに近いか、実際に人が匂いを嗅いで調べる官能検査を実施。高い精度でオリジナルに近づくことがわかった。中本教授は言う。
「同じ要素臭の組み合わせでも、それぞれの構成比を変えることで、基本的に植物由来の香りはほとんどカバーできます。なるべく少ない要素臭からたくさんの香りを作ることができれば、効率的に様々な匂いを再現できるようになります」
要素臭を組み合わせ、様々な香りを瞬時に再現する装置が「嗅覚ディスプレイ」だ。
遠隔匂い再現システムは、匂いの種類や濃度を測定する「匂いセンサー」で検出したデータをインターネットで遠隔地へ送ると、香りの情報を受信した嗅覚ディスプレイから香りが出てくる仕組みだ。ウェブカメラで匂いの対象を撮影したデータも送れば、視覚と嗅覚の情報が同時にリアルタイムで再現できる。既に同大学の学園祭などで実演しており、植物由来の香りに関しては1年以内に実現可能という。
視野に入れているのは食品分野への応用だ。食品の匂いサンプルを系統立てて集めるのは困難なのが課題だが、こうした技術がパソコンやテレビ、スマホに搭載されれば、飲食店や通販の商品の香りを嗅ぐのも夢ではない。
ただ、前出の東原教授はこんな警句を発している。
「嗅覚は無意識のうちに作用させられるし、情報など外部要因に感じ方をコントロールされやすい脆さもあります。人為的に香りで情動を操作できるようになる時代だからこそ、悪用されないように注意が必要です」
(編集部・渡辺豪)
※AERA 2021年5月17日号