好きな香りを嗅ぐと気持ちが安らいだり、気分転換できたりするのは香りに情動を動かす力があるからだ。嗅覚は五感の中で唯一、嗅覚細胞などを介して喜怒哀楽などの感情を司る大脳辺縁系に直接つながっているため、情動と関連づけしやすいとされる。香りの感覚に個人差が大きいのは、嗅覚受容体の遺伝的差異や記憶、人生経験とも密接につながるからだ。

 私たちは普段、五感をフルに使ってコミュニケーションをしている。コロナ禍でオンラインのコミュニケーションが増えると、嗅覚や肌で感じる触覚が遮断されるが、そのことにあまり頓着していない。これもコロナ禍の「隠れた問題」だと東原教授は指摘する。

「嗅覚や触覚が遮断されると、人間は不安感を覚えたり、落ち着かなくなったりします。その場所の匂いと結び付けて思い出すことがないため、会話の内容も記憶に残りにくくなります」

 そういえばオンラインが主になった、この1年の取材の記憶はおぼろげだ。取材でいろんな場所へ出かけ、様々な匂いを嗅ぐ。そうやって無意識のうちに蓄積していた匂いの記憶がコロナ禍で途絶えてしまったからなのだろうか。

 嗅覚と切り離せないのは食生活だ。新型コロナウイルスの感染者に味覚や嗅覚の障害が生じると報告されているが、味わいに関する情報の大半は鼻から脳に入っていることがわかっている。

「他の動物は栄養を取ることが目的ですが、人間はおいしさにもこだわります。そこで重要なのが香りです。食べものからバランスよく栄養素を取ることで健康に生きられるのと同様に、おいしい料理の香りを嗅ぐことで、幸せ感が促され、情動も整えられ、免疫力も高められます」(東原教授)

 米シカゴ大学の研究者らが57~85歳の成人を対象に行った調査で、死亡する5年以内に嗅覚を失っていた確率は、他のどんな疾病よりも高いという研究結果を14年に発表している。

 東原教授は嗅覚受容体の解明を進めることで、人の香りの感じ方を予測し、自在に香りをデザインする技術の確立に取り組んでいる。

「ターゲットの受容体が結合する匂い分子を特定できれば、その受容体を活性化する匂い分子をデザインできます。その人の嗜好(しこう)性、性格、体調などの情報と合わせれば、好みや場面に応じた香り成分の配合が可能になり、テーラーメイドで香りを供給できる時代にシフトするでしょう」(同)

 幸せな記憶や情景を思い出させる匂いの再現や、仮想現実の空間に匂いを加えることも想定している。東原教授は研究の意義をこう強調する。

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