錦の御旗の効果も大きかった。開戦から3日目の正月五日の早朝、征討大将軍に任命された仁和寺宮は本陣の東寺を出陣し、鳥羽街道を南下した。錦の御旗を翻した仁和寺宮は徳川勢の本営が置かれた淀城の近くまで進んだ後、戦火の収まった伏見を視察し、夕暮れに東寺へ帰還している。官軍であることを確認した薩摩・長州藩は勇気百倍となる。一方、賊軍に転落したことを知った徳川勢の動揺は大きかった。戦意を挫かれた。

 さらに、薩摩・長州藩の装備する銃砲は新式である上に、兵士は調練を充分に積んでいた。その上、実戦経験も豊富だった。

 ところが、旧幕府軍の主力で最も戦意旺盛だった会津藩などが装備する銃砲は旧式で、何といっても射程が短かったのが致命傷となる。その射程外から、一方的に射撃される羽目となったからだ。

 新選組に典型的だが、得意の白兵戦も損害を増やすだけだった。戦後、土方歳三が「もはや刀や槍の時代ではない」と述べたのは、そうした状況を象徴する言葉なのである。

 そして徳川勢の敗勢にとどめを刺したのが、味方と頼んだ譜代大名たちが次々と裏切ったことである。それは、仁和寺宮が錦旗を翻して淀城の近くまで進んだ時から始まった。

 前線から退却した徳川勢は本営を置いた淀城を拠点に抵抗を試みるが、入城を認めてはならないという新政府からのプレッシャーに淀城を居城とする稲葉家は屈する。淀城近くまで錦旗が進んだ効果は絶大だったのだ。徳川勢としては悲憤慷慨せざるを得ないが、同士討ちを始めるわけにもいかず、淀を放棄して橋本の関門まで撤退する。

 この辺りは男山と天王山に挟まれた天嶮の地だったが、外様大名ながら譜代大名並みの信頼を得ていた津藩藤堂家が山崎の関門を守っていた。橋本の関門を守る徳川勢は山崎の関門を守る藤堂家と連携し、山崎街道を進撃してきた薩摩・長州藩の攻撃を食い止める計画だった。

 ところが、開戦4日目の正月六日、山崎の砲台から突然、橋本の関門に向けて砲撃が開始される。新政府から藤堂家に対し、官軍たる薩摩・長州藩を救うようにという命が下ったのだ。要するに、徳川勢を攻撃せよということである。驚愕した徳川勢は大混乱に陥り、薩摩・長州藩に橋本の関門を突破された。

 ここに徳川勢は総崩れとなり、慶喜のいる大坂城へと我先に敗走していったのである。

◯監修・文
安藤優一郎(あんどう・ゆういちろう)/1965年千葉県生まれ。歴史家。文学博士(早稲田大学)。近著『渋沢栄一と勝海舟 幕末・明治がわかる! 慶喜をめぐる二人の暗闘』(朝日新書)、『お殿様の定年後』(日経プレミアシリーズ)他、著書多数。JR東日本・大人の休日倶楽部「趣味の会」等で講師も務める。

※週刊朝日ムック『歴史道 Vol.15』から抜粋