鳥羽・伏見の戦いの「勃発の地」を伝える石碑/京都市伏見区(c)朝日新聞社
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週刊朝日ムック『歴史道 Vol.15』から
週刊朝日ムック『歴史道 Vol.15』から

 幕末、雄藩の台頭や西欧列強の圧力を何とか凌いできた徳川幕府。一方、旧来の体制をよしとせず、維新回天を目指した薩長を中心とする勢力。慶応三年十月、将軍慶喜は事態を収拾するべく大政奉還するが、新政府は謀略も辞さず、あくまでも武力による討幕を目指した──。週刊朝日ムック『歴史道 Vol. 15』では戊辰戦争を大特集。今回は、1年5カ月におよぶ戊辰戦争の火ぶたが切られた鳥羽・伏見の戦いの真実に迫る!

【鳥羽・伏見ではいったい何が起きた? 戦いの経過はこちら】

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 江戸城の留守を預かる勘定奉行小栗忠順たち徳川家首脳部が、市中を騒がす強盗の根城だった薩摩藩三田屋敷を焼き討ちにかけた。それを受け、大坂城内の徳川勢は沸き立つ。その勢いに押された慶喜は薩摩藩討伐の旗印のもと、将兵を京都に向かわせることを決める。慶応四年(1868)一月二日、徳川勢は大坂城を出陣して続々と上京の途に就いたが、すでに海上では薩摩藩と戦っていた。榎本武揚が艦長を務める軍艦開陽が、兵庫沖に停泊中の薩摩藩の軍艦に砲撃を加えたのである。

 翌三日、徳川家は大坂に駐在していた各国公使に薩摩藩討伐の意思を伝えたが、この日から陸上での戦いが始まる。徳川勢は鳥羽街道と伏見街道を経由して京都に進軍したが、開戦の火蓋は鳥羽街道で切られた。夕刻に両軍は上鳥羽村で激突したが、薩摩藩が優勢を保ち、徳川勢は下鳥羽村まで後退する。

■事態を打開すべく西郷が画策した軍事クーデター

 鳥羽での開戦を受け、伏見街道でも開戦となる。伏見奉行所などを拠点とした徳川勢や会津藩、そして新選組は激しい市街戦を展開したが、薩摩藩の砲撃により奉行所が火に包まれると、長州藩が奉行所に突入する。薩摩藩もこれに続き、奉行所の占領に成功した。

 鳥羽伏見戦争初日は、薩摩・長州藩の優勢という戦況だった。戦いは翌日以降も続くが、結局のところ開戦初日の戦況が勝敗の決め手となる。 開戦の報は京都にも届くが、大久保利通は岩倉に次のように説いた。このまま徳川勢の入京を許せば、新政府内で薩摩藩に批判的な土佐藩などのグループが勢いを増す。王政復古の大変革も瓦解してしまうとして、仁和寺宮を征討大将軍に任命して錦旗節刀を賜ること。諸藩に慶喜討伐を布告することを求めた。

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沈黙を余儀なくされる土佐藩