大久保に檄を飛ばされた岩倉は、慶喜討伐の命令を布告するよう新政府の会議で主張したが、孤立無援の状態だった。土佐藩などが猛反対したからである。結論が出ないまま夜を迎えたが、前線からの戦勝報告で会議の空気は一変する。以後、大久保の狙い通りに事態が進行した。まさしく「勝てば官軍」だった。

 翌四日、前日の会議で征討大将軍に任命された仁和寺宮が錦旗を掲げて東寺まで進み、慶喜征討の本陣を置いた。これが契機となり、形勢を展望していた諸藩が雪崩を打って旗幟を鮮明にしていく。

 ここに大勢は決した。西郷隆盛や大久保など薩摩藩が新政府の主導権を握り、土佐藩などは沈黙を余儀なくされる。

 一方、旧幕府軍は各戦線で奮戦するものの、敗色は濃厚となった。六日には、味方の津藩からも砲撃を受けて総崩れとなる。

 相次ぐ敗報、そして錦旗が掲げられて朝敵とされたことで、慶喜は戦意を失う。六日夜、密かに大坂城を脱出し、七日朝には、軍艦開陽に乗って江戸へと向かった。

 同七日、朝廷は慶喜の追討令を発した。その後、慶喜討伐軍である東征軍が組織され、江戸への進軍を開始するのである。

■勝利を楽観視して新政府軍を甘く見た徳川方

 徳川勢、つまり旧幕府軍敗退の要因は、勝利を楽観視して相手を甘く見たことに尽きる。勝利を確信する徳川方は京都を東西南北から包囲する作戦を立てず、南方にあたる鳥羽・伏見から平押しに押せば、京都を占領できると考えていた。よって、倍以上の兵数があったにも拘らず、鳥羽街道と伏見街道を経由して京都に向かう作戦計画を立てた。

 開戦の火蓋が切られたのは鳥羽方面だが、鳥羽街道を進んだ徳川勢は数の力を頼みに、装弾もせずに歩兵隊を進撃させた。戦わずして数の力で押し切れる。黙って通すはずとみたのだ。そのため、薩摩藩の砲撃や射撃に反撃できず、壊乱する。

 出鼻をくじかれた徳川勢は敗勢を立て直せないまま退却を重ねた。かたや数の上では劣勢の薩摩・長州藩は勝利を得るための作戦を練り、戦いに臨んだ。その違いは大きかった。

 一口に徳川勢と言っても、幕府歩兵隊、会津、桑名、高松、松山、大垣、津藩などの寄り合い所帯であり、バラバラに戦っていたのが実態だった。個々に奮戦はするものの、連携の悪さを衝かれる形で薩摩・長州藩に足元をすくわれてしまう。両藩に勝るとも劣らない軍事力を有効に使いこなせず、自滅したのである。

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もはや刀や槍の時代ではない