ここから施設側への不信感が拭えなくなり、改善を求めて施設がある市の高齢福祉課に相談もした。そこからは、(特養の苦情窓口である)国民健康保険団体連合会(国保連)を紹介された。弁護士にも相談した。
■こんな場所で死なせるもんか
年が明け、3月のある寒い日。今度は母の容体が急変したので病院に搬送すると施設から電話があった。病院の近くに住む姉が入院手続きに行きガラス越しに母を見た。もうだめかもしれない。姉妹で母の死を覚悟した。
ここからは姉妹の連携が力を発揮した。特養の契約を解除しよう。意見も一致して姉がすぐに退去の申し入れをし、私が看護小規模多機能型居宅介護(以下、看多機)の事業所に連絡をした。
私は「在宅介護に戻したい」という思いが捨てきれず、特養に入ってからも地域包括支援センターや行政(高齢福祉課の担当者)に問い合わせをしたりインターネットで調べたりしていろいろな在宅介護の選択肢を持っていた。中でも看取(みと)りにも強く、看護の手厚い看多機は、手の施しようがなかった母の受け入れ先としては最高だった。看多機は定員制で29人までしか契約ができないので誰かが解約(残念ながら亡くなるなど)しなければ新規の受け入れができない。母があの看多機に入れたのは本当に運が良かった。枠が空いていたのだ。
母の大好きな桜の季節。看多機の建物の前に大きな介護タクシーが止まり、病院から付き添ってきた姉とともにストレッチャーに乗せられた母が降りてきた。半年ぶりぐらいに見た母。「ママ」と声をかけると「あぁぁ」と言葉にならない声。すぐにベッドに移され、看護師たちが、褥瘡(じょくそう)はないか、呼吸状態はどうか、嚥下(えんげ)はどうか、と全身を丁寧に観察、処置していくのを、引いた場所で見ながら「ここなら安心」、そう確信した。その後母は、酸素も吸入し、少しずつだが食事をし、水分をとるようになった。私はほぼ毎日通って介護した。
母は少しずつ話をするようになり顔色も良くなった。すぐそばにあるキッチンの匂いや、スタッフの笑い声も届く。家庭的な雰囲気の中で、母は家を思い出したのだろう。周囲の予想をいい意味で裏切ってくれ今も健在。83歳。父も89歳になった。