
「小野伸二や稲本潤一、宮本恒靖ら、1999年のワールドユースで準優勝したメンバーや2000年シドニー五輪8強のメンバーが入り、いわゆるゴールデンエイジが中心でした。一方で、秋田豊や中山といったベテランが精神的支柱としてベンチに座り、一体感のあるチームでした。『ベテランの存在』『一体感』『連帯』が後の代表のキーワードになっていきました」(六川さん)
日韓大会後、満を持して監督に就任したのはジーコである。06年のドイツ大会には一番乗りで本戦出場を決め、期待は大きかった。だが、初戦のオーストラリアに1-3の逆転負け、クロアチアにはスコアレスドロー、ブラジルには1-4といいところがなくグループリーグで敗退した。
「日韓大会のメンバーが円熟味を増し、集大成の大会になるはずでした。しかし、ジーコ体制下で“海外組”と“国内組”で明確に序列が設けられ、現地で練習を見ていてもチームが分断されている空気が見て取れました。史上最強とも言われたメンバーは初戦で逆転負けを喫し、その後、チームはまとまりを欠きました」(同)
サッカーの「日本化」を掲げて、チームづくりを進めたのがイビチャ・オシムである。オシムはポジションに固執することなく、守備と攻撃を連動させて動く「ポリバレント」という思想を植え付けた。選手へかける言葉やコメントが哲学的で含蓄に満ちていたため「オシム語録」も話題に。しかし、オシムは大会前に体調を崩し退任、岡田が後を引き継いだ。

10年の南アフリカ大会、岡田は大会直前で本田圭佑をワントップに置く戦術へ変更。本田は存在感を見せつけ、2勝1敗で決勝トーナメントへ進出。1回戦でパラグアイと対戦しPK戦で敗退した。
「結果を残せたのはベテランの力も働きました。“分裂”した前回大会の反省を踏まえての選出でした。加えて、カウンターを狙う守備的な戦術への変更、足首痛に悩まされていた中村俊輔に代わって台頭した本田など、土壇場でのさまざまな変更にもチームは瓦解しませんでした」(同)