北朝鮮は「飢餓にあえぐ独裁国家」という印象が強い。しかし伊藤さんが実際に見た隣国の姿は、日本で伝えられるイメージとはまったく異なっていた。
伊藤さんは市民の「自然な表情」を撮り、紹介しようと考えた。しかしそれは、簡単ではなかった。
■息づかい感じる距離で
北朝鮮を訪れる外国人には、通訳を兼ねた案内人の職員がずっと同行する。表通りの整備された風景は撮らせても、一歩入った路地など「なるべく見せたくない」場所での撮影はかなり渋られた。しかし訪朝を重ねるうち、「悪意をもって紹介するのでなければ、何を撮ってもいい」と許されるようになった。
写真家として、被写体にはできるだけ近づき、息づかいも感じられるような距離で撮影してきた。当初は、いきなり近づいてレンズを向けると、カメラに慣れない相手から怒られることもあった。しかし5、6年前からスマホが急速に普及し、自分たちで撮ることが当たり前になると、カメラに対する人々の拒否反応も薄れていった。
地下鉄車内で伊藤さんは、偶然隣席に座った母子に向けて、30回ほどシャッターを切った。その間、母子も周りの乗客も、にこやかに見守っていたという。
国連の制裁や自然災害により、北朝鮮は、食糧難など経済的に困窮した状況といわれる。しかし、伊藤さんは「多数の餓死者が出た90年代末と比べれば、人々の表情や暮らしぶりにはまだ余裕があるようだった」と語る。
軍事パレードやマスゲームに限らず、街角の風景にも軍人の姿や隊列、あるいは金日成、金正日親子の肖像が登場するのも、この国の日常の一部ともいえる。「私たちは、隣国のありのままの姿を正確に理解する必要がある。そのための材料を提供したい」と伊藤さんは考えている。「平壌の人びと」をテーマにした写真展を、東京や名古屋など各地で開催予定だ。(朝日新聞編集委員・北野隆一)
※AERA 2021年8月16日-8月23日合併号