今度の展覧会は600点が展示されたそうで、さあ何と華やかだったことでしょう。

 二度とはない大展覧会は、老衰の体で、行かれなかったことが情けなくてなりません。まあ、これから一年以上も生きたら、こんな切ない思いを何度もくりかえすことでしょう。

 ヨコオさんは、この展覧会で、また改めて、あの五歳の時描かれた<巌流島の決闘>シーンの模写の絵を絶賛しておられます。会場一杯に並んだ600点の作品の中で、これが一番の傑作とヨコオさんはおっしゃっていられます。それなら、これ以後に描かれた作品は、なくてもいいクズばかりということですか? まさか! この大規模な作品は案図の外で傑作の名を輝かせてゆくのです。芸術作品の生命は、作者の案図を無視して、それ自体によって輝きつづけたり、途中でがっくり消えてたりしますね。

 一目見て、よしわるしを決める芸術作品に比べ、作品を一字一字読んでもらわなければ、作品の評価が決められない小説や詩は、評価がむつかしいですね。

 ヨコオさんは、わずか四百字原稿用紙三枚半の中で、芸術家が生きているうちに、誰かと競争したり、評価を求めたがるのはみっともないと、繰り返されています。しかし芸術を志す者にとって、評価の高い自分以外の作品にあって、自分の中に眠っていた芸術のネタをゆり起こされることもあるでしょう? あこがれや競争心が全くなくては、とても長い「認められない歳月」なんかに耐えられないでしょう。

「死んだ後の世界も趣味の世界にしてしまえばいい」と、おっしゃいますが、描きたくもないものを描く、それが趣味だとおっしゃっても、人間食べてゆかねばなりません。ヨコオさんの言に従うなら、「芸術家になると食べられない、覚悟せよ」と、先ず、芸術志願者に云って聞かせるのが、先輩のつとめかと思いませんか?

 芸術家になれるのは、その人にただ才能のある、なしです。その分量まで考えたら、とても芸術の道などに進めません。それを怖がらず、恐ろしい道を選んだのが大ゲイジュツ家のヨコオさんであり、小ゲイジュツ家になってしまった百歳の寂聴です。

 二人の共通点は「ヘンなジイさん、ヘンなバアさん」ということです。ハイ。

週刊朝日  2021年10月1日号

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